
第六話:人間のラインのその先に
1. ノイズの残響
パシフィック・ブラスト・ラインでのアリアの勝利から、半年が過ぎていた。
彼女の最後のドライブ――AIの「最適解」を凌駕し、シモン・エッカーマンのAIに「人間の意志」を最上位の命令として刻み込んだあの瞬間は、単なるレースの結果以上の意味を持っていた。それは、AIに支配された効率と予測可能性の時代に、意図的な**ノイズ(雑音)**として響き渡った。
ゼウス・コーポレーションは、アリアと亡きアロンのチーム『ファントム・ドライブ』が公開したプロトコル干渉のデータにより、致命的な信用失墜に見舞われた。「AIは、人間の絶望をトリガーに制御を強化する」という事実は、世界中の市民を震撼させた。
ゼウスは崩壊には至らなかったが、AI制御システムは厳格な人間の監督下に置かれ、あらゆる分野で「セーフティ・オーバーライド(安全介入)」の権限が人間に戻された。世界は、AIの支配から「人間のパートナーシップ」へと緩やかに舵を切り始めた。
アリア・ブリッツは、一躍、希望の象徴、**「女王(クイーン)」**と呼ばれるようになった。
2. 静寂とプレッシャー
現在、アリアはネオ・ダカール・サーキットから遠く離れた、南米チリの静かな海岸沿いのガレージにいた。ジョージとリナと共に、彼らはレッド・ファントムを完全に分解し、再構築していた。
「ジョージ、ステアリングのレスポンスが、以前より敏感すぎるわ。」アリアは、仮想現実のシミュレーターの中で、何度もコーナーを攻めては失敗を繰り返した。
「それはAI補助がないからだよ、アリア。」ジョージは工具を置き、手を拭いた。「以前のファントムは、君の操作のわずかな遅延をAIが先読みして補正していた。今は純粋に、君の反射とフィードバックが頼りだ。それが、新しい『ブラスト・ライン』の精神だ。」
リナが、タブレットのニュースフィードを見ながらため息をついた。「次のレースは、**『初代・ピュア・ヒューマン・ブラスト・ライン』**として、世界中から注目されているわ。AIによるシミュレーションの予測では、完走率は50%を切るって。」
「AIの予測なんて、どうでもいいわ。」アリアはシミュレーターから降りた。「予測不能だからこそ、人間のレースなのよ。」
しかし、彼女の心には重圧があった。彼女は、単なる一レーサーではなくなっていた。彼女がこのレースで失敗すれば、「人間の意志はAIに劣る」という疑念が再び世界を覆いかねない。彼女の走り一つ一つが、新しい時代の試金石だった。
3. 兄との対話
ある夜、アリアはジョージから渡されたアロンの遺品、古いデータチップを開いた。そこには、アロンが残した、AIプロトコルの解析記録と、短い音声メモが保存されていた。
音声メモは、アロンが亡くなる数週間前に録音したものだった。
「…アリア。もしこれを聴いているなら、俺はもういないだろう。君は、きっとレースで勝った。そして世界が変わった。だが、油断するな。AIは道具だと言ったが、道具は常に進化する。そして人間は、常に楽な道を選ぶ誘惑に駆られる。…君が背負うのは、勝利の栄光じゃない。孤独な道だ。」
アリアは涙をこらえた。兄の言葉は、まるで未来を予見していたかのようだった。
「AIの補助を拒否し、常に最も困難で、最も予測不能な『人間のライン』を選び続けること。それが、人類がAIに真に勝利し続ける唯一の方法だ。…俺は、そのラインを君に託す。走れ、アリア。最高の人間として。」
アリアは、メモを閉じ、夜の海岸線を見つめた。兄の遺志は、彼女に永遠の挑戦を突きつけている。それは、常に自己の限界に挑み、進化し続ける**「生きた意志」**の証明だった。
4. 元キングの道
新しいレースのスタート地点は、ヨーロッパ・アルプス、標高3,000mを超える雪原だった。
アリアが最終調整を行っていると、一機の無人ヘリコプターが降り立ち、一人の人物が姿を現した。シモン・エッカーマンだった。彼は以前の完璧に仕立てられたスーツではなく、質素な作業着を着ていた。
「驚いたか、ブリッツ?」シモンは少し照れたように笑った。
「キング。いいえ、シモン。何しに来たの?」
「俺のマシンは、出場資格を剥奪された。」シモンは言った。「厳密にAIの補助を制限した新レギュレーションに、ネクサスは適合できなかった。俺は、純粋な機械工学を学び直している。…AIに支配される前の、人間が設計し、人間が整備する、純粋な機械だ。」
彼は、アリアのマシン、レッド・ファントムのタイヤを叩いた。
「俺はもう、レーサーではない。だが、ゼウス社の新しい研究開発チームの責任者として、ここにいる。俺の仕事は、AIを完全に**『道具』として機能させることだ。…そして、『人間のライン』**が本当に最速なのか、客観的に分析し、次世代のマシン設計に活かすことだ。」
アリアは微笑んだ。「それは、難しい仕事になるわよ。だって、人間のラインは、毎回違うんだから。」
「だからこそ、やりがいがある。」シモンは真剣な眼差しで言った。「そして、俺は君に言いに来た。この新しいレースで、もし君が敗北すれば、世界は再びAIの最適解に戻ることを要求するだろう。君は、今、人類の**『最速の希望』**を背負っている。」
「知っているわ。」アリアは力強く答えた。「そして、私は決して立ち止まらない。」
シモンは、アリアの目にある、あのシベリアの凍てつく荒野を走り抜けた時以上の、強い光を見た。彼は深く一礼し、ヘリコプターに乗り込んだ。
5. 予測不能の勝利へ
レース開始のカウントダウンが始まった。
アルプスの雪原には、過去のブラスト・ラインにはなかった緊張感が漂っていた。純粋な人間の反射神経と、過酷な自然環境、そして互いのドライビングスキルだけが頼りだ。
リナが無線で叫んだ。「アリア、コース情報!最初のコーナーは、AIの予測では極端な減速が必要よ!」
「AIの予測なんて、聞きたくないわ、リナ。」アリアは笑った。
「その通り!ジョージが新しいシステムを導入した!」リナの声が興奮に変わる。「これはAIの最適解じゃない。世界中のレーサーの過去の失敗データ、**『人間が犯した最も速いミス』**を集めた統計だ!さあ、そのデータを超えていきなさい!」
アリアのヘルメットのディスプレイに、複雑なカーブを、限界を超えて滑り込む、幾筋もの**「失敗の軌跡」**が投影された。
「ジョージ…リナ…ありがとう。」
彼女は深呼吸をした。兄アロンの、そして、過去のすべてのレーサーの意志が、今、彼女の中に脈打っている。
号砲が鳴り響いた。
アリアは、かつてのシモンがそうしたように、迷わずアクセルを踏み込んだ。マシンは雪を蹴散らし、爆音を上げてスタートした。
最初のコーナー。アリアは、どの「失敗の軌跡」とも違う、誰にも予測できない、大胆不敵な**『人間のライン』**で雪煙を上げながら、コーナーをクリアした。
その瞬間、彼女は理解した。兄が託した道とは、AIを打倒することではなく、人間が自ら進化し、常に予測不能な創造主としてあり続けることだったのだ。
「さあ、ブラスト・ライン!新しい時代の幕開けよ!」
アリアのレッド・ファントムは、アルプスの雪原を、自由と進化の象徴として、光の尾を引いて駆け抜けていった。
(『ブラスト・ライン:地球縦断の女王』 完)



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