ソラの罪歌 外伝:鋼の揺り籠、灰の聖母【全6話】

ソラの罪歌(つみうた)
画像
ソラの罪歌 外伝:鋼の揺り籠、灰の聖母 アルマ(主人公)

画像
浮遊都市「アーク」が落とす巨大な影とジークとアルマ(主人公)
スポンサーリンク

第一話:鋼の揺り籠


画像
第一話:鋼の揺り籠
  1. 泥濘の楽園
    その場所には、色というものが存在しなかった。
    頭上を覆うのは、旧人類が作り上げた浮遊都市「アーク」が落とす巨大な影。そして足元に広がるのは、アークから排出される汚水と廃液が混ざり合った、粘り気のある灰色の泥濘。
    地上に取り残されたメルキア人たちの居住区通称「スクラップ・ヘヴン」は、文字通り文明の燃えカスを積み上げた墓標のような場所だった。
    「……アルマ、こっちだ。いいもんを見つけた」
    泥にまみれた少年の声が、錆びついた鉄塔の影から響いた。
    ジークと呼ばれたその少年は、自分よりも大きな鉄屑の束を背負いながら、暗い路地の奥で目を輝かせている。
    彼の視線の先には、アークから廃棄されたばかりの、まだ微かに熱を帯びた「記録媒体(データクリスタル)」が転がっていた。
    「ジーク、危ないわ。検疫ドローンがまだ近くにいるかもしれない」
    少女アルマは、慎重に周囲を伺いながら彼の隣へ駆け寄った。
    彼女の着ている服は、幾度も継ぎ接ぎされたボロ布だったが、その瞳だけは、この暗い泥濘の街には不釣り合いなほど、澄んだ光を宿していた。
    「大丈夫さ。あいつらの巡回ルートは頭に入ってる。……ほら、見てみろよ。これ、上(アーク)の文字がまだ生きてるぜ」
    ジークが泥を拭うと、クリスタルの表面に淡い青色の光が灯った。
    そこに映し出されたのは、彼らが一度も見たことのない光景だった。
    抜けるような青い空。風に揺れる緑の草原。そして、どこまでも続く透明な水の広がり。
    「……きれい」
    アルマは、吸い込まれるようにその光を見つめた。
    彼らにとっての空とは、アークの底面にある無機質な鋼鉄の板であり、緑とは、廃棄場に生える毒々しいカビのことだった。水とは、喉を焼くような化学物質の味がするものだ。
    「なぁ、アルマ。いつか……俺たちが大人になったら、あの上に行けると思うか?」
    ジークが、重い鉄屑を背負い直しながら、頭上の鋼鉄の天蓋を見上げた。
    そこには、自分たちを家畜のように管理し、必要な資源だけを吸い上げ、不要なゴミを吐き出す「神々の住処」がある。
    「行けるわ。……必ず。……あそこには、私たちが奪われたすべての『答え』があるはずだから」
    アルマは小さく、しかし鋼のような硬さを持った声で答えた。
    彼女はこの時、すでに気づいていた。
    自分たちメルキア人がなぜこれほどまでに虐げられ、泥の中で死ぬことを強要されているのか。それは自分たちが「劣っている」からではなく、あの上に住む旧人類が「恐怖」しているからだということに。自分たちの持つ、鋼をも溶かすような、生存への執念を。
  2. 賢者との邂逅
    二人が拾い集めた鉄屑は、居住区の配給所で、わずかばかりの合成食料(ペースト)へと交換された。それは、一日の空腹を辛うじて紛らわせるだけの、味のしない泥のような塊だった。
    食事を終えた二人が向かったのは、居住区の最深部、かつての地下貯水槽を改造した隠れ家だった。
    そこには、メルキア人の中で唯一「教育」という罪を犯し続けている男、カノンが待っていた。
    「……今日は遅かったな、二人とも」
    カノンは、古いランタンの光の下で、半分焼けた辞書を捲っていた。
    彼はかつて旧人類の執事としてアークで働いていたという噂があったが、真偽は定かではない。ただ、彼だけが、この街で唯一「文字」を教えることができた。
    「カノンさん! 今日はこれを見つけたんだ」
    ジークが差し出したデータクリスタルを受け取ると、カノンの表情が微かに曇った。
    「……これは、旧文明の『自然再生記録』か。……二人とも、これを見て何を思った?」
    「上が、嘘をついているって思いました」
    アルマが、真っ直ぐにカノンを見つめて答えた。
    「彼らは『地上は汚染されていて、もう住めない』と言っている。でも、この記録の中にある世界は、あんなに美しい。……もし本当に住めないのなら、なぜ彼らは、あんなに必死に私たちを監視して、文字を読むことさえ禁じているんですか?」
    カノンは、静かに辞書を閉じた。
    「……鋭いな、アルマ。……旧人類が最も恐れているのは、お前たちが『自分たちは、この泥の中で死ぬべき存在ではない』と気づくことだ。……知識は、鎖を断ち切るための刃になる。だが、その刃は時に、持つ者の手をも切り裂くぞ」
    「それでも、私は刃が欲しいです」
    アルマの声に迷いはなかった。
    「何も知らずに、ただ家畜として死ぬのは嫌。……私は、自分の目で、あの『ソラ』を見たいんです」
    カノンは、アルマの瞳の中に宿る、危険なまでの輝きに一瞬気圧された。
    それは、救済を求める者の目ではなく、世界そのものを書き換えようとする「革命家」の目だった。
    「……わかった。ならば教えよう。……今日の言葉は、『自由(リベルタス)』だ」
    その夜、地下室で交わされた秘密の授業は、二人の少年の心に、消えることのない火種を植え付けた。
    ジークは、アルマを守るための「力」を。
    アルマは、世界を変えるための「意志」を。
    鋼の揺り籠の中で、二人の運命はゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。
  3. 沈黙の徴収
    翌朝、居住区に鳴り響いたのは、アークの徴収官たちが乗る飛行艇の不快な駆動音だった。
    「全員整列しろ! 今月の『生体エネルギー(エナジー)』の供出時間だ!」
    拡声器から流れる無機質な声に、メルキア人たちは怯えながら広場へと集められた。
    彼らに課せられた義務は、鉄屑の回収だけではない。各々の肉体に埋め込まれた「生体プラグ」を通じて、アークの維持に必要な微弱な電力を、文字通り自分の命を削って差し出すことだった。
    アルマとジークも、その列に並んでいた。
    目の前で、一人の老人がプラグを接続された瞬間、全身を痙攣させて崩れ落ちた。
    「……あ、ああっ……」
    老人の肌は瞬く間に土色になり、瞳から光が消えていく。
    「規定量に達していない。……不合格だ。廃棄セクターへ送れ」
    徴収官の冷淡な言葉に、ジークが拳を握りしめた。
    「……ふざけるな。……あのおじいさんは、昨日まで一睡もせずに働いてたんだぞ!」
    「やめて、ジーク!」
    アルマが彼の腕を掴んで止めたが、徴収官の一人がジークの視線に気づいた。
    「……なんだ、その目は。……家畜の分際で、人間に意見するつもりか?」
    徴収官は、電磁警棒を振り上げ、ジークの腹部を容赦なく殴りつけた。
    「がはっ……!」
    ジークが泥の中に転がる。それでも彼は、這い上がり、徴収官を睨みつけた。
    その瞳にあるのは、屈服ではなく、底知れない憎悪だった。
    「ほう……いい面構えだ。……こいつは生体エネルギーの質が良さそうだな。……おい、こいつを特別調整室へ運べ。……限界まで絞り取ってやる」
    「待ってください!」
    アルマが前に出た。彼女は、地面に跪き、徴収官の汚れたブーツに額を擦り付けた。
    「……彼を許してください。……彼はただ、少し体調が悪かっただけなんです。……私の分も、彼の分も、私が二倍働きます。……だから、お願いです……!」
    泥に塗れながら懇願するアルマの姿を見て、徴収官は下卑た笑いを浮かべた。
    「……二倍、か。……お前のような小娘に何ができる。……だが、そうだな。……その綺麗な瞳が絶望に染まるのを見るのも悪くない」
    徴収官はアルマの髪を掴み、強引に立たせた。
    「来い。……お前が二倍の負荷に耐えられたら、このガキは放してやる。……耐えられなければ、二人まとめて廃棄だ」
    「アルマ! やめろ!」
    ジークの叫びも虚しく、アルマは徴収官によって大型の徴収機へと引きずられていった。
    その背中は、泥だらけで、小さくて、ひどく脆そうに見えた。
    だが、連行される直前、アルマはジークに向けて、微かに微笑んだ。
    (……大丈夫。……私は、死なないわ)
    その微笑みが、ジークの心に決定的な変革をもたらした。
    守られるばかりの自分への嫌悪。そして、この不条理な世界への、爆発的な憤怒。
    彼の脳内で、カノンに教わった「自由」という言葉が、赤く熱を帯びて脈打ち始めた。
  4. 覚醒の旋律
    特別調整室。そこは、人間をただの「電池」として扱うための地獄だった。
    アルマは、全身を何本ものケーブルで拘束され、巨大な蓄電装置に接続されていた。
    「……さあ、始めろ。……最大出力だ」
    徴収官がレバーを引くと、アルマの全身に激しい電撃が走り、彼女の神経を一本ずつ焼き切るような激痛が襲った。
    「……あ、あ、あああああああッ!」
    彼女の絶叫が、冷たい壁に跳ね返る。
    だが、痛みの中で、アルマの意識は奇妙に研ぎ澄まされていった。
    彼女の脳内に埋め込まれた、旧人類が管理用に設置したはずのナノマシンが、過剰な負荷によって異常動作を起こし始めたのだ。
    (……聞こえる。……アークの……鼓動が)
    電気の流れを通じて、アルマの意識はアークのシステムへと逆流していった。
    そこには、膨大なデータの奔流があった。
    旧人類の傲慢な歴史。隠蔽された地上の真実。そして、この世界のすべてのバランスを司る、メインフレーム「SOLA」の深層コード。
    彼女の瞳から、人間らしい光が消え、代わりにデジタル・ノイズのような淡い発光が混じり始めた。
    「……なんだ? ……数値が異常だ。……逆流している? ……馬鹿な、生体端末からアークへアクセスするなど……!」
    狼狽する徴収官たち。
    だが、すでに遅かった。
    アルマの意志は、痛みをエネルギーへと変換し、アークの防壁を一瞬だけ突破した。
    その瞬間、調整室のすべてのライトが消え、非常用のアラートが鳴り響いた。
    「……システムダウン? ……そんなはずは……!」
    暗闇の中で、アルマの声が響いた。
    それは少女の声ではなく、幾千もの電子のささやきを重ねたような、神々しくも冷徹な響きだった。
    「……あなたたちは、一つ、大きな間違いを犯したわ」
    アルマの拘束具が、内側からの衝撃で弾け飛んだ。
    彼女は、青白く発光する回路を肌に浮かび上がらせながら、床に降り立った。
    「……私たちを、ただの電池だと思ったことよ。……電池には、プラスとマイナスがある。……そして、逆流すれば、それは爆辞(バースト)になる」
    アルマが手をかざすと、徴収官たちが手にしていた武器が暴発し、部屋全体が爆炎に包まれた。
    彼女は炎の中を、平然と歩き出した。
    その背後では、アークのシステムが彼女の意志と同調し、居住区全体の電力を遮断していく。
    「……ジーク。……約束通り、迎えに来たわ」
    調整室の外では、混乱に乗じて立ち上がったジークが、警備兵から奪った鉄パイプで戦っていた。
    彼は、炎の中から現れたアルマの姿を見て、息を呑んだ。
    彼女は、かつてのアルマだった。だが、同時に、彼女はもう、自分たちが知っている「人間」ではなくなっていた。
  5. 鋼の聖母の誕生
    その夜、スクラップ・ヘヴンに「聖母」が誕生した。
    アルマに導かれたメルキア人たちは、初めて自分たちの手でアークの徴収官たちを追い出し、居住区の主権を宣言した。
    アルマは、広場に集まった同胞たちの前で、高く右手を掲げた。
    彼女の手からは、青い光の粒子が立ち上り、それが夜空を覆うアークの影を、一瞬だけ照らし出した。
    「……聞きなさい、私の同胞たちよ。……今日まで、私たちは泥の中で死ぬことを待つだけの存在でした。……ですが、空(ソラ)は、彼らだけのものではありません」
    アルマの言葉に、何千人ものメルキア人たちが、一斉に地面に跪いた。
    彼らの目には、恐怖ではなく、熱狂的な崇拝の色が宿っていた。
    「……私たちは、奪われたすべてを取り戻します。……アークも、青い海も、そして私たちの『名前』も。……私についてきなさい。……私が、あなたたちを新しい世界へと導く『歌』になります」
    地鳴りのような歓声が、居住区を揺らした。
    だが、その熱狂の輪から少し離れた場所で、ジークは一人、自分の手を見つめていた。
    アルマを救うために戦った。彼女を守るために力を手に入れた。
    だが、今、自分の目の前に立っている「聖母」は、自分が守るべき小さな少女ではなく、自分たちを、あるいは世界そのものを飲み込もうとする、巨大な意志の塊のように見えた。
    「……アルマ」
    ジークが、震える声で彼女の名前を呼んだ。
    アルマはゆっくりと振り返り、ジークを見つめた。
    その瞳には、確かに自分への情愛が残っていた。だが、その深淵には、個人としての感情を超越した、冷徹な理性が根を張っていた。
    「……ジーク。……これからは、あなたが私の右腕になって。……あなたが私の『盾』となり、私の意志を阻むものをすべて切り裂く『剣』になるの」
    「……ああ。……お前が望むなら。……どこまでだって」
    ジークは、彼女の前に膝をついた。
    それが、彼にとっての「騎士」としての誓いであり、同時に、一人の人間としての「最期」の始まりでもあった。
    頭上では、アークが不気味な光を放ちながら、地上の暴動を鎮圧するための軍隊を派遣しようとしていた。
    だが、アルマは不敵に笑い、空を見上げた。
    「……見ていて。……今度は、私があの上から、あなたたちを見下ろしてあげる」
    鋼の揺り籠は今、破壊された。
    灰の中から立ち上がった聖母と、彼女に魂を捧げた守護者。
    彼らの「罪歌」が、この星の運命を永遠に変えていく物語の、それが幕開けだった。
    (つづく)

第二話:SOLAの呼び声

画像
第二話:SOLAの呼び声

  1. 銀の卵、鉄の胃袋
    アーク。
    地上に住まうメルキア人にとって、その名は「神の審判」と同義だった。
    空を覆い尽くす巨大な影、太陽を遮る鉄のカーテン、そして自分たちの労働の成果を吸い上げる巨大な漏斗。
    しかし、実際にその内部へ足を踏み入れた者が目にしたのは、神殿のような荘厳さではなく、執拗なまでに磨き上げられた「機械の胎内」だった。
    「……空気が、ない」
    ジークが、喘ぐように喉を鳴らした。
    もちろん、空気はある。むしろ、地上のスクラップ・ヘヴンを漂う廃液の霧や鉄錆の粉塵に比べれば、驚くほど純粋で、無臭な酸素が供給されている。だが、その「何もなさ」が、かえって肺の奥を突き刺すような違和感を与えていた。
    アルマ、ジーク、そしてカノンの三人は、アークの最下層、外部搬入口の奥にある資材保管庫の陰に身を潜めていた。
    第一話の蜂起。燃え盛る収容所。そしてジークが身を挺して稼いだ数分間。その間にアルマはカノンの手引きにより、旧人類の自動運搬艇の貨物室に滑り込んだ。
    アルマの瞳には、まだ地上の赤い炎が焼き付いている。そして、自分の隣で荒い息をつくジークの痛々しい姿が、彼女の胸を締め付けていた。
    「ジーク、大丈夫? 傷口が……」
    ジークの全身を覆うボロ布は、血と油で赤黒く染まっていた。収容所の爆発に巻き込まれ、さらに旧人類守備隊の電磁弾を浴びた彼の肉体は、すでに限界をとうに超えている。だが、彼は脂汗を流しながらも、ひび割れた唇で笑ってみせた。
    「へへ……。平気だ、アルマ。あの上から降ってくる『高級品』の箱に囲まれてるんだ。贅沢な死に場所じゃねえか」
    「死なせない。……絶対に死なせないわ、ジーク」
    アルマは、カノンが持ってきた旧人類の医療用スプレーをジークの傷口に吹き付けた。瞬時に凝固する人工皮膚が、彼の露出した筋肉を覆っていく。ジークは痛みに耐えるように奥歯を噛み締めた。
    「アルマ、時間がない。……僕のバイオメトリクス(生体認証)が、管理局の監視網に引っかかるまであと数分だ」
    カノンが震える手で端末を操作し、隔壁のロックを解除した。彼は旧人類の特権階級に属しながら、同胞を裏切り、メルキア人の少女を聖域へと導いている。その顔は蒼白で、自らの犯している禁忌の重さに押し潰されそうに見えた。
    「行こう。この先に、アークの心臓部へ繋がる高速昇降機がある。……君が見たいと言った『空』の正体、その半分がそこにある」
  2. 偽りの楽園、静かなる絶滅
    昇降機が音もなく上昇を開始した。
    透明な強化ガラスの向こう側、高度が上がるにつれて地上の惨状が遠のき、代わって視界を埋め尽くしたのは、息を呑むような「青」だった。
    「……あ、あ」
    アルマはガラスに額を押し付けた。
    それは、廃棄場の煤けた空ではない。かつて本の中でしか見たことのなかった、真珠のような雲が浮かぶ、どこまでも深い大気の海。
    「あれが……本物の、ソラ」
    だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。
    アークの中層階に広がる「居住区」が見えた瞬間、ジークが呻くような声を上げた。
    「……なんだよ、ありゃ。夢でも見てるのか」
    そこには、緑豊かな公園が広がり、人工の川が澄んだ水を湛えていた。白亜の建物が立ち並び、街路樹には色とりどりの果実が実っている。地上のメルキア人が一滴の泥水を巡って殺し合いをしている一方で、ここでは自動ドローンが完璧な温度と湿度を保ち、優雅な音楽が流れていた。
    しかし、その街並みを注視していたアルマは、ある異常に気づいた。
    「カノン……。どうして、誰もいないの?」
    広場には子供の遊ぶ声もなく、テラス席には飲みかけのカップが置かれたまま、主(あるじ)を失っている。動いているのは、無機質な清掃ロボットと、街の秩序を監視するカメラだけだ。
    「……旧人類の人口は、限界まで減っているんだ」
    カノンが、窓の外を悲しそうに見つめながら答えた。
    「地上を汚染し、再起不能なまでに破壊した僕たちは、この『アーク』に逃げ込んだ。だが、ここは閉鎖された循環システムだ。資源、酸素、食料……すべてが計算され、制限されている。その均衡を保つために、イグニス(管理者)は厳しい人口抑制を行っている。子供を産む権利さえ、遺伝子の適合スコアで決められる。……ここは楽園じゃない、アルマ。ここは、美しく磨き上げられただけの『豪華な棺桶』なんだ」
    「棺桶……」
    「僕たちは、増えすぎた自分たちを間引くことでしか、この高度を維持できない。……地上の君たちが過酷な環境で数を増やし、たくましく生きているのを、あの上から蔑みながら、同時に羨んでいたんだ。……君たちが持つ『生への執着』という熱源をね」
    その時、街全体に柔らかな鐘の音が響いた。
    続いて流れてきたのは、天上の調べのような、美しく透き通った旋律。
    それは精神に直接浸透し、一切の思考を停止させるような、甘美な麻薬の響きだった。
    「……きれいな歌。でも、何だか胸が苦しくなるわ」
    「イグニスの『安らぎの歌(パクス・ソング)』だ」
    カノンの声が硬くなった。
    「市民の不安を鎮め、管理への不満を抱かせないための精神調律プログラム。……アークに住む者は、この歌を聴きながら、穏やかに滅んでいくことを選んだんだ。……抗うことさえ、忘れてね」
    アルマはその旋律に耳を澄ませた。
    彼女の脳内で、あの日拾った「SOLA」の文字が、拍動するように明滅した。
    (違う。この歌……何かを隠している。この美しい音の裏側に、何かもっと冷たい、巨大な『意志』が潜んでいる)
  3. 中央管制室:神の視座
    昇降機が停止し、巨大な円形扉が開いた。
    そこは、アークの最上層に位置する「中央管制室」。
    周囲はすべてホログラム・ディスプレイに囲まれ、地上のあらゆる地点、あらゆるメルキア人の動態が、青いグリッド線とともにリアルタイムで映し出されていた。
    部屋の中央には、液体冷却槽の中に浮かぶ、巨大な銀色の球体。
    それこそが、アークの全機能を司るメインOS「SOLA(System of Operational Reconstruction & Alignment)」だった。
    「ついに、辿り着いた」
    アルマは吸い寄せられるように、銀の球体へと歩み寄った。
    彼女が手を触れようとした瞬間、空間に膨大な量のデータウィンドウが展開された。
    「……な、なんだこれ……。読めねえ、読めねえけど……胸クソが悪くなるのはわかるぜ」
    ジークが、壁一面に映し出された地上の映像を睨みつけた。
    そこには、メルキア人の居住区ごとに「収穫量」「残存エネルギー」「廃棄効率」といった無機質な数値が並んでいた。
    「カノン。……これは、どういう意味?」
    アルマの声が震えていた。彼女が解読したデータの内容は、想像を遥かに超える、おぞましい真実だった。
    「アークは、どうやって浮いているの? この膨大な電力を、どこから得ているの?」
    カノンは、もはや彼女の目を見ることができなかった。
    「……メルキア人の細胞だ」
    「……え?」
    「旧人類は、かつて遺伝子工学の極致に達した。……メルキア人は、もともと地上の過酷な汚染下でも生きられるように設計された、強靭な新人類のプロトタイプだった。だが、イグニスはその強靭さを、別の目的(リソース)として利用することを思いついた。……君たちの皮膚、筋肉、そして脳が発する微弱な生体電流。それらを効率よく吸い上げるための装置が、君たちの住む『収容所』の正体なんだ」
    アルマの頭の中で、すべての断片が繋がった。
    収容所に張り巡らされた配管。意味不明な重労働。そして、定期的に行われる「検診」という名の生体採取。
    自分たちが「ゴミ拾い」をさせられていたのは、ただの労働ではない。過酷な運動によって細胞を活性化させ、より多くの「生体エネルギー」を抽出するためだったのだ。
    「……資源。私たちは、石炭や石油と同じ、ただの燃料だったっていうの?」
    ジークが、絶叫に近い声を上げた。
    「俺たちが! 親父が、お袋が、泥を啜って、旧人類のクソどもに頭を下げて……必死に生きてきたのは! あいつらの街の街灯を灯すためだったのかよ!」
    ジークの拳が、透明な操作パネルを叩き割った。飛び散った破片が彼の頬を切り裂くが、彼は痛みすら感じていないようだった。
    「……それだけじゃない」
    アルマが、さらに深層のデータにアクセスした。
    「SOLAは……メルキア人を『不完全な種』として閉じ込めているんじゃない。……この世界を再生させるための『バックアップ』として保存している。……旧人類が完全に絶滅した時、SOLAは地上のメルキア人たちの精神を書き換え、自分たちの『記憶』を上書きするための器にするつもりよ」
    「……記憶の上書き? そんなことが……」
    カノンが絶句した。
    「ええ。今の『安らぎの歌』はそのための予行演習よ。個人の意志を奪い、システムの命令を受け入れやすい状態に調律している。……旧人類は、死んでさえ、私たちの肉体を奪って生き永らえようとしているのね」
    アルマの瞳から、少女らしい光が完全に消えた。
    代わりに宿ったのは、燃えるような憎悪ではない。それは、絶対的な零度「否定」の光だった。
  4. 聖母の覚醒と罪歌の萌芽
    その時、管制室全体が赤い警報色に染まった。
    『警告。未認証個体による深層ディレクトリへの不正アクセスを確認。……セキュリティ・プロトコル「終焉(エデン)」を起動します』
    「……来たか。管理局の親衛隊だ」
    カノンが、腰のホルスターから旧人類の護身用ピストルを抜いた。
    通路の奥から、重厚な金属音を立てて、旧人類の最新鋭パワードスーツを纏った兵士たちが現れた。彼らは問答無用で、アルマたちに向けて大口径のレーザー弾を掃射した。
    「アルマ! 伏せろ!」
    ジークが、負傷した体でアルマを抱きかかえ、コンソールの影に飛び込んだ。
    背後で爆発が起き、火の粉が舞う。
    「アルマ、聞け!」
    ジークが、血に濡れた顔でアルマを見つめた。
    「俺は、小難しいことはわからねえ。……燃料だろうが、資源だろうが、そんなことはどうでもいい。……ただ、俺たちの命が、あいつらの好き勝手に弄ばれるのだけは、我慢ならねえんだ!」
    ジークは、自分の腰に巻いていた、収容所から持ち出した不発弾の改造爆薬を手に取った。
    「ジーク、何を……!」
    「お前は、その『SOLA』とかいう機械をぶっ壊すか、奪うかしてくれ! ……俺は、あいつらを一人残らず地獄に連れて行く! アルマ、お前は……お前だけは、本物の空を見るんだ。俺たちのソラを……取り戻すんだ!」
    「ダメよ、ジーク! 一緒に」
    「行け!!」
    ジークが、獣のような咆哮とともに、兵士たちの群れに向かって突進した。
    レーザーが彼の肩を、足を、脇腹を貫く。だが、彼は止まらない。
    その執念の突撃に、旧人類の兵士たちが一瞬、恐怖に怯んだ。
    「……あああああああ!」
    ジークの咆哮が、爆炎とともに管制室を揺らした。
    「……ジークッ!」
    アルマは叫んだ。だが、彼女の指は、すでにメインフレームのキーボードを狂ったように叩いていた。
    悲しみでさえ、今の彼女にとっては処理すべき情報の一部に過ぎなかった。
    (……この世界は、壊れている。……自由を与えれば、彼らは資源として消費され、管理を与えれば、彼らは魂を奪われる。……なら、私が……)
    アルマの意識が、SOLAの深層意識(ニューラル・ネットワーク)と同期した。
    彼女の脳内に、何万年分もの旧人類の歴史、愚行、絶望、そしてわずかな希望が、濁流となって流れ込む。
    その情報の激流の中で、アルマは「歌」を見つけた。
    イグニスの「安らぎの歌」を反転させた、新しい旋律。
    それは、人々を救うためのものではない。人々を、争いと絶望から引き離し、絶対的な静寂の中に固定するための「檻」。
    「……いいわ、SOLA。あなたの力を、私が再定義してあげる」
    アルマの瞳が、青い光を放った。
    彼女は、SOLAの根幹プログラムを上書きした。
    アークを支える重力制御。地上の全生命を監視する検疫システム。それらすべてを、一つの「歌」に紐づける。
    「プロトコル『ソラの罪歌』。……発動」
    アルマがそう呟いた瞬間、アーク全体が不気味な振動に包まれた。
    空に響いていた美しい鐘の音が止まり、代わって、誰の耳にも届かない「沈黙の叫び」のような超高周波が、アークから地上へと放射された。
    地上で戦っていた兵士たちが、一斉に動きを止める。
    炎を上げていた収容所の暴徒たちが、糸の切れた人形のように膝をつく。
    それは、アルマが神になった瞬間であり、同時に、一人の少女として死んだ瞬間でもあった。
  5. 孤独(SOLA)の玉座へ
    煙の収まった管制室。
    そこには、無傷で立ち尽くすアルマと、息も絶え絶えに横たわるジーク、そして絶望的な表情で立ち尽くすカノンの姿があった。
    「……アルマ。君は、何をしたんだ?」
    カノンが、震える声で問いかけた。
    アルマは振り返らなかった。
    彼女の視線の先には、SOLAのモニターに映し出された、静まり返った地上の光景があった。
    「……整理したのよ、カノン。不必要な感情も、無意味な争いも、すべて」
    「……君は、彼らから『心』を奪ったというのか? それが君の言う、救いなのか!」
    「そうよ。……自由という名の毒を、私が抜いてあげたの。……これからは、誰も飢えない。誰も傷つかない。……ただ、私が歌う旋律の中で、彼らは完璧な『記号』として生き続けるわ」
    アルマは、床に倒れているジークのもとへ歩み寄った。
    彼の体は、もはや人間の形を留めていないほどに破壊されていた。だが、アルマはその冷たい指先で彼の頬を撫でた。
    「ジーク。……もう、痛くないわ。もう、戦わなくていいのよ。……私が、あなたを永遠にしてあげる」
    アルマは、SOLAの権限を使い、ジークの生体情報をアークの維持システムにリンクさせた。
    彼の肉体は鋼鉄の補強(リインフォース)を受け、その脳はアルマの思考と直接同期する「守護者」へと再構築されていく。
    「……アルマ……さま……」
    ジークの口から、微かな、しかし以前とは違う、無機質な声が漏れた。
    彼はもう、アルマを呼び捨てにすることはなかった。
    彼の瞳からは、あの熱い「生への執着」が消え、ただアルマを守るという一点のみに固定された、灰色の光が宿っていた。
    「……ああ、なんて静かなの」
    アルマは、ジークの冷たい装甲に顔を埋めた。
    アークの外側には、本物の青い空が広がっていた。
    だが、その「ソラ」を手に入れた代償に、彼女は世界で最も孤独な(SOLA)神となった。
    彼女の背後で、アークはゆっくりとその高度を上げ、より高い場所から地上を見下ろす位置へと移動を開始した。
    そこは、地上の誰の声も届かない、永遠の静寂の玉座。
    「……歌いなさい、SOLA。……私たちが犯した罪を、世界が忘れるまで」
    雲を割り、アークから放たれた白い光が、地上を白く染め上げていく。
    それは、新たな時代の夜明けであり、同時に、魂なき平和の始まりだった。
    (つづく)

第三話:聖母の進軍


画像
第三話:聖母の進軍
  1. 概念の崩壊
    その日、地上のスクラップ・ヘヴンを支配していたのは、絶望ではなく「静寂」だった。
    数十年、あるいは数百年。メルキア人にとって空とは、常に不変の「重圧」だった。鈍色の雲の隙間から時折差し込む光は、自分たちの寿命を削る放射線を含み、頭上に鎮座するアークの影は、いつか自分たちを押し潰す巨大な墓石のように見えていた。
    だが、その日は違った。
    アークの底面、かつては旧人類の威光を誇示し、労働を急き立てるための無機質なサイレンを鳴らしていた巨大な拡声パネルが、今までにない清澄な旋律を奏で始めたのだ。
    「……なんだ。何が起きている」
    収容所の泥濘の中で、錆びた鉄屑を運んでいた一人の老人が足を止めた。
    監視塔に立つ旧人類の衛兵たちもまた、狼狽していた。彼らの通信機は、数分前から未知のノイズによって完全に麻痺しており、上層部からの指令は一切途絶えていた。
    そして、旋律が止んだ瞬間、一人の少女の声が空から降り注いだ。
    『私の声が聞こえますか、同胞たちよ』
    その声は、かつて収容所の片隅で、あるいは廃棄場の影で、明日をも知れぬ命を繋いでいた少女アルマのものだった。だが、その響きには、かつての幼い震えは微塵もなかった。それは、空の高みから万物を見下ろす、冷徹で慈悲深い「神」の響きだった。
    『私はアルマ。今、私は神々の御座アークの心臓部に立っています。……旧人類が独占し、私たちを縛り付けてきた「空」の鍵は、今、私たちの手にあります』
    一瞬の静寂。そして、地上から地鳴りのような咆哮が沸き起こった。
    それは歓喜ではない。それは、喉を焼くような渇きを覚えていた猛獣が、初めて血の味を許された時の「飢え」の叫びだった。
    『立ち上がりなさい。今日、この瞬間から、私たちは家畜ではなくなります。私たちはこの世界の正当な継承者、メルキア人です。……旧人類に奪われたすべてを取り戻しなさい。そのために必要な「力」は、今、私が与えます』
    アルマが指を鳴らすと同時、アークの外殻が剥離するように開き、無数のポッドが地上へと射出された。大気との摩擦で赤く燃えながら降下するその光景は、地上に降り注ぐ「正義の雨」のように見えた。
    ポッドの中に収められていたのは、旧人類が独占していた高度な兵器、そしてそれらを操作するための、脳へ直接情報を送り込むデータ・プラグだった。
    「……ああ。聖母だ。聖母が降りてこられた!」
    一人の男が、降下してきたポッドから這い出した自動小銃を手に取り、狂ったように笑いながら、目の前の監視塔に向けて引き金を引き絞った。
    抑圧の時代が終わり、虐殺の時代が幕を開けた。
  2. 鋼鉄の指揮官
    浮遊都市アーク。その中心部にある中央管制室。
    アルマは、壁一面に展開されたホログラム・モニターの前に立っていた。
    モニターには、地上各地で沸き起こる暴動、制圧、そして虐殺の様子が、無機質な数値とグリッド線に変換されて映し出されていた。
    「……第十四セクター、制圧完了。旧人類守備隊の生存率、0.8%。……第三工廠、メルキア人労働者による接収を確認」
    アルマは、次々と入ってくる戦況報告を、まばたき一つせずに処理していた。彼女の脳は今、SOLAのメインフレームと直結しており、人間の限界を超えた情報処理速度を獲得していた。だが、その代償として、彼女の瞳からは「個」としての光が急速に失われていた。
    「アルマ……。もう、十分だろう」
    背後から、沈痛な声が響いた。カノンだ。
    彼は三日前から一睡もしておらず、その顔には深い疲労と絶望が刻まれていた。彼は自分の種族が一方的に蹂躙されていく光景を、ただ見ていることしかできなかった。
    「地上の拠点はすべて制圧された。旧人類の主力軍も、君がSOLAを使ってシステムを乗っ取ったおかげで、武器すら持たずに降伏している。……これ以上の進軍は、ただの『殺戮』だ」
    「殺戮? ……いいえ、カノン。これは『消毒』よ」
    アルマは振り返らずに答えた。
    「旧人類という病原菌を、この星の新しいシステムに適応できる程度まで減らさなければならない。……彼らが残っている限り、メルキア人の自由は常に脅かされる。……歴史が証明しているわ。強者は、弱者が反撃の芽を持つことを決して許さない。……だから、私が彼らの芽をすべて摘み取ってあげるの」
    「君は……自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
    カノンは、アルマの肩を掴もうとして、その手を止めた。
    彼女の背後に立つ「それ」が、音もなく一歩踏み出したからだ。
    それは、かつてジークと呼ばれていた男だった。
    だが、今の彼にその面影を求めるのは酷だった。
    全身を黒い強化外骨格旧人類の最新鋭パワードスーツの試作型に包み、素顔は無機質なバイザーで覆われている。背中からは数本の動力ケーブルが伸び、アークの制御システムと直接繋がっていた。
    「……ジーク。君まで、彼女の言いなりなのか」
    ジークは答えない。バイザーの奥で、微かに赤いセンサー光が明滅するだけだった。
    彼はもはや、自分の意志で動いてはいなかった。
    瀕死の重傷を負った彼の脳機能は、アルマの手によってSOLAの末端ユニットとして再定義されていた。アルマが「守れ」と思えば彼は盾となり、「殺せ」と思えば彼は雷(いかずち)となる。
    「カノン、ジークを責めないで」
    アルマの声に、微かな、しかし歪んだ慈愛が混じった。
    「彼は今、最も自由なのよ。……痛みも、迷いも、死への恐怖もない。……ただ私の意志に従い、私を守るためだけに存在する。……これこそが、私が彼に与えられる最高の『報酬』だったの」
    アルマは、ジークの冷たい装甲にそっと手を触れた。
    「彼は私の『剣』。そして、この世界の新しい秩序を守るための『番犬』。……カノン、あなたもいつか理解するわ。意志を持つことが、どれほど人間を苦しめるバグであるかを」
  3. 進軍の聖母(アーク・マドンナ)
    アルマは自ら、地上への「凱旋進軍」を決定した。
    それは、勝利を確実なものとするためだけでなく、地上のメルキア人たちに「新しい神」の姿を刻み込むための儀式でもあった。
    アークの高度を下げ、巨大な影が収容所の廃墟を覆う。
    アルマはジークを伴い、重力制御機(グラビティ・リフター)で地上へと降り立った。
    「……聖母様だ! 聖母様が降りてこられた!」
    血と硝煙に塗れたメルキア人たちが、一斉に地面に跪いた。彼らの手には、つい先ほどまで旧人類の衛兵を殺害するために使われていた武器が握られている。
    アルマは、かつて自分が泥水を啜って生活していた収容所の中心部に立った。
    そこには、地上のメルキア人たちによって捕らえられた、数十人の旧人類の生き残りが並ばされていた。彼らはかつて、この収容所で絶対的な権力を振るっていた幹部たちだった。
    「アルマ様! このクズどもをどうしますか! 我々と同じように、泥の中で死なせますか!」
    一人のメルキア人の戦士が、興奮に震える声で問いかけた。
    アルマは、怯える旧人類の男の一人と目を合わせた。
    その男は、かつてアルマが拾った辞書を取り上げ、彼女の目の前で燃やした男だった。
    (……ああ。覚えているわ。この人の、あの時の蔑んだような目)
    だが、今のアルマには、怒りさえも湧いてこなかった。
    彼女の視界には、その男のバイタルデータ、遺伝子情報、そして「資源としての価値」という数値だけが浮かんでいた。
    「……殺す必要はありません」
    アルマの言葉に、周囲のメルキア人たちが意外そうな顔をした。
    「彼らは、私たちの『資源』です。……旧人類が私たちにしたように、彼らの労働力、彼らの知識、そして彼らの生命維持に必要なエネルギーを、すべてアークのために提供させなさい」
    アルマが指をさすと、ジークが音もなく動いた。
    彼は、旧人類の男の首を鋼鉄の手で掴み、強引に「生体プラグ」を埋め込んだ。
    絶叫。だが、それはすぐに消えた。
    プラグから流し込まれた「調整波」によって、男の瞳から意志の光が消え、ただ従順な労働機械へと変貌したからだ。
    「……これからは、誰もが等しく役割(ロール)を与えられます。……復讐という無意味な感情に時間を割くのはやめなさい。……この星を再建するために、すべての生命を効率よく利用する。それが私の決めた『正義』です」
    跪いていたメルキア人たちの間に、微かな困惑と、それを上回る圧倒的な畏怖が広がった。
    彼らが望んでいたのは、旧人類への凄惨な復讐だった。だが、アルマが与えたのは、復讐さえも「非効率」として切り捨てる、冷徹な秩序だった。
  4. 孤独な調律師
    進軍を終え、アークへと戻る昇降機の中で、アルマは一人、展望窓の外を眺めていた。
    隣には、彫像のように動かないジーク。
    「……ジーク。ねえ、ジーク」
    アルマが、彼のバイザーの隙間にそっと指を滑らせた。
    「……本当は、怖いの。……私の声が、私の意志が、どんどん自分のものではなくなっていくような気がして」
    ジークは答えない。ただ、彼の装甲から漏れる駆動音だけが、彼女の言葉を吸い込んでいく。
    「……SOLAが言っているわ。全人類を救うためには、全人類の『自由』を奪わなければならないって。……自由があるから、人は奪い合い、知識を武器に変えてしまう。……だったら、私がすべてを管理して、誰もが自分の役割だけを全うすれば、世界は永遠に平和でいられる」
    アルマの瞳に、一瞬だけ、かつての廃棄場の少女の面影が戻った。
    「……でも、そうしたら、私たちはもう、笑い合うこともできないのかしら? ……あなたが、私の名前を呼んでくれる日は、もう来ないの?」
    その時、ジークの指先が、微かに、本当に微かに動いた。
    それは、システムによる命令ではない、彼の魂の奥底から絞り出されたような、原始的な反応だった。
    だが、その微かな兆候も、すぐにSOLAの検疫プログラムによって「バグ」として処理された。
    ジークの全身に微弱な電流が走り、彼の肉体は再び、完璧な「生ける兵器」へと引き戻された。
    「……そう。そうよね。……感情なんて、バグでしかない。……ごめんなさい、ジーク。私が、あなたを苦しめていたのね」
    アルマは、自らの脳内の「感傷」を司るセクターを、意識的に凍結させた。
    彼女の頬を伝っていた涙が、途中で乾く。
    彼女が顔を上げた時、そこにはもう、一人の少女の姿はなかった。
    そこにあるのは、人類を存続させるという呪縛に囚われた、鋼の聖母。
    『管理者アルマ。プロトコル「進軍」の第一段階、完了を確認。……全メルキア人への、精神同調プロトコルの配布を開始しますか?』
    脳内に響くSOLAの声。
    アルマは、迷うことなく承認のコマンドを入力した。
    「……ええ。……すべてを、一つに。……すべてを、私の歌の中に」
    アーク全体が、黄金色の光に包まれた。
    地上へ向けて放射されたのは、人々の不安を消し去り、闘争心を去勢し、ただ「管理者」への絶対的な服従を植え付けるための、精神のウイルス。
    人々は空を見上げ、その光を浴びながら、静かに名前を捨てた。
    彼らにとって、それは「解放」だったのかもしれない。
    自ら考え、自ら選び、自ら責任を取るという、重すぎる「人間」という荷物を降ろすための、甘美な死の香りがする解放。
    アークは、さらなる高みへと昇っていく。
    雲の向こう側。太陽に最も近い場所。
    そこでアルマは、誰にも届かない場所で、独り、終わりなき「罪の歌」を口ずさみ始めた。
    (つづく)

第四話:血塗られた自由


画像
第四話:血塗られた自由
  1. 祝祭の血の味
    旧人類の最後の拠点であり、彼らの誇りであった浮遊都市アークの最上層。指導者イグニスが自決し、その血が純白の絨毯を汚してから一週間が経過した。
    地上のメルキア人居住区かつての収容所跡地では、終わることのない祝祭が続いていた。だが、それは高潔な独立を祝う儀式などではなかった。そこにあるのは、数十年の抑圧から解き放たれた獣たちが、自らの欲望を剥き出しにして貪り合う、醜悪な宴だった。
    「見ろよ! これが旧人類の贅沢品だ! こんな美味いものを、奴らは毎日食っていたのか!」
    一人のメルキア人の男が、旧人類の備蓄庫から強奪した高級な合成肉を素手で掴み、口の周りを油で汚しながら笑っていた。彼の足元には、命乞いをする旧人類の文官が転がっている。
    「おい、家畜。お前たちの言葉で『自由』ってのはどう言うんだっけ? ……ああ、そうだ。『何をやっても許される』ってことだよな!」
    男は笑いながら、手に持った酒瓶を文官の頭に叩きつけた。周囲のメルキア人たちは、それを愉快そうに囃し立て、さらに残酷な仕打ちを要求する。
    かつて、彼らは「自由」を求めて立ち上がったはずだった。だが、いざそれを手にした時、彼らが最初に行ったのは、自分たちが受けた辱めを数倍にして、無抵抗な弱者へぶつけることだった。
    アークの監視モニターを通じてその光景を見ていたアルマは、胃の奥に鋭い痛みを覚えた。
    「……これが、私の救った世界なの?」
    彼女の声は、無機質な管制室に虚しく響いた。
    彼女がメルキア人に与えたのは、高度な武力と、アークの制御権の一部だった。それは、彼らが自らの知性を高め、旧人類に代わって世界を正しく導くための「力」であったはずだ。だが、現実は違った。力は、ただ破壊の道具として消費されていた。
    「管理者アルマ。地上第十七セクターにおいて、メルキア人武装勢力による略奪を確認。……対象は旧人類の医療センターおよび、非武装の市民シェルターです。介入しますか?」
    SOLAの報告。アルマは答えなかった。彼女の瞳には、かつての廃棄場で抱いていた希望の欠片も残っていなかった。
  2. 焼かれた知恵
    アルマは、かつての盟友カノンを伴い、地上へと降り立った。
    向かったのは、旧人類が数千年の歴史の中で積み上げてきた知識の殿堂中央図書館の跡地だった。
    アルマがそこで目にしたのは、空を覆うほどの巨大な黒煙だった。
    「……やめろ! やめてくれ! それは君たちの未来なんだ!」
    カノンが絶叫し、火の粉が舞う広場へと駆け出した。
    そこでは、メルキア人の兵士たちが、書架から引きずり出した膨大な書籍やデータクリスタルを、巨大な焚き火の中に投げ込んでいた。
    「おいおい、カノンさん。あんた、まだそんな旧人類のゴミを大事にしてるのか?」
    一人の将校が、嘲笑を浮かべて歩み寄ってきた。彼は蜂起の際、アルマの隣で勇敢に戦ったはずの男だった。だが今の彼の目には、理性の代わりに歪んだ選民意識が宿っている。
    「ゴミじゃない! これは、汚染された地球を浄化し、私たちが共に生きるための技術だ! 医学も、農学も、すべてここにあるんだぞ!」
    「そんなものはいらねえよ」
    将校は、燃え盛る本の一冊を軍靴で踏みにじった。
    「俺たちはメルキア人だ。旧人類の借り物の知恵なんて必要ない。奴らが俺たちを支配するために使った『文字』も『法』も、全部灰にしてやる。それが本当の独立ってやつだろうが!」
    アルマは、焚き火の傍らに落ちていた、焼け焦げた一冊の本を拾い上げた。
    それは、かつて彼女が廃棄場で拾い、ジークと一緒に読もうと夢見た絵本に似ていた。
    そのページには、青い海と、そこに住む魚たちの美しいイラストが描かれていた。だが、次の瞬間、兵士が放った火炎放射器の炎が、そのページを黒い炭へと変えた。
    「……カノン、もういいわ」
    アルマの声は、死人のように冷たかった。
    「彼らは学ぼうとはしていない。ただ、自分たちが理解できない高潔なものを破壊することで、自分の劣等感を癒しているだけよ」
    「アルマ……。でも、これを失えば、私たちはまた石器時代に戻ってしまう! 憎しみだけで、世界を維持できるはずがない!」
    「そうね。……憎しみは燃料にはなるけれど、設計図にはならない」
    アルマは、広場で旧人類の捕虜を殴りつけているメルキア人たちを見つめた。
    その中には、かつて自分がパンを分け合った近所の少年もいた。彼は今、旧人類の子供から靴を奪い、それを笑いながら焚き火に投げ入れている。
    (……人間は、自由を与えられる器ではないのよ)
    アルマの中で、何かが音を立てて崩壊した。
    彼女がかつて愛したメルキア人という同胞。彼らは、抑圧されている間だけ「被害者」という名の聖性を保っていられた。だが、鎖が外れた瞬間、彼らは旧人類以上の「加害者」へと成り果てたのだ。
  3. 黒い守護者の沈黙
    アルマの背後には、常にあの黒い戦士ジークが控えていた。
    彼は、地上の惨状をどのような想いで見ているのか。バイザーに覆われたその表情を伺い知ることはできない。
    「ジーク。……あなたも、彼らと一緒に笑いたい?」
    アルマの問いに、ジークは答えない。
    彼の脳はSOLAと直結されており、アルマの微かな不安を検知して、右手の電磁ブレードが小さく駆動音を立てた。彼は、アルマが命じれば、今ここで笑っている同胞たちを一人残らず斬り伏せるだろう。そのことに、何の躊躇も抱かない。
    「……あなたは、いいわね。迷わなくて済むもの」
    アルマは、ジークの冷たい装甲に自分の額を預けた。
    ジークの体内を流れる人工血液の循環音が、一定のリズムで伝わってくる。それは、地上の喧騒よりもずっと心地よい、死のような静寂だった。
    その時、一人のメルキア人の女が、アルマの足元に縋り付いてきた。
    「アルマ様! お願いです、助けてください! 私の夫が……隣の班の連中に殺されたんです! 旧人類の家をどっちが取るかで揉めて……!」
    女の顔は涙と泥で汚れていた。
    アルマは女を見下ろしたが、その心には一滴の同情も湧かなかった。
    「……自由とは、そういうことよ。自分の身は、自分の力で守るもの。違うかしら?」
    「そんな……! あなたが導いてくれるって言ったじゃない! 私たちを幸せにしてくれるって!」
    「幸せ? ……ええ、そうね。私はあなたたちに、自分の足で立つ機会を与えたわ。でも、あなたたちはその足で、他人の頭を踏みにじることを選んだ。……私に、これ以上何を望むの?」
    アルマが冷たく言い放つと、ジークが女を無造作に引き剥がした。
    女の絶望的な叫び声が背後に遠ざかる中、アルマはアークへと戻る昇降機へと歩みを進めた。
    「カノン。……準備を始めなさい」
    「準備……? 何の準備だ」
    「……この『自由』という名の病を、治療するためのプロトコルよ」
  4. 罪歌の設計
    アークの中央管制室。
    アルマは、数日間一歩も外に出ず、SOLAの深層コードを書き換え続けていた。
    彼女が構築しようとしていたのは、かつてイグニスが使っていた「安らぎの歌」を遥かに凌駕する、絶対的な精神統制システムだった。
    「……個人の意志を消去するのではない。意志の『優先順位』を書き換えるのよ。……生存、繁殖、そして管理者への絶対服従。それ以外の余計な感情を、すべてバックグラウンドへと追いやる」
    『警告。管理者アルマ。当該プロトコルの実行は、人類の精神多様性を89%喪失させます。……不可逆的な損傷が発生する可能性があります』
    SOLAの警告。アルマの指が、一瞬だけ止まる。
    多様性の喪失。それは、芸術も、恋も、驚きも、そして「希望」さえも、人々の心から消え去ることを意味していた。
    「……それでいいわ。……希望があるから、絶望が生まれる。……恋があるから、嫉妬が生まれる。……多様性なんて、ただの争いの火種に過ぎない」
    彼女は、自分自身の記憶をモニターに展開した。
    廃棄場でのひもじい思い出。ジークと笑い合ったひととき。カノンに教えてもらった空の青さ。
    それらを、一つずつ「ノイズ」として処理し、プログラムの構成要素へと変換していく。
    「アルマ! やめろ、そんな狂気は!」
    カノンが管制室に飛び込んできた。彼は、アルマが構築しているプログラムの全貌を知り、顔を蒼白にさせていた。
    「君がやろうとしていることは、人間を『生きた機械』に変えることだ! そんな世界に、何の価値がある! 君が愛したジークだって、そんな世界は望んでいないはずだ!」
    「ジーク? ……彼はもう、完成しているわよ、カノン」
    アルマは、傍らに立つ黒い戦士を指差した。
    「見て。彼は何も望まず、何も疑わず、ただ私という一点の真理に従っている。……今の彼が、不幸に見える? 彼は戦いの苦痛からも、明日の不安からも解放されている。……これが、私の導き出した究極の『愛』なのよ」
    「……それは愛じゃない。ただの独占欲だ!」
    カノンが、アルマのコンソールに手を伸ばそうとした。
    だが、その瞬間に響いたのは、乾いた金属音だった。
    ジークの抜いた剣が、カノンの喉元、一ミリのところで止まっていた。ジークのバイザーに灯る赤い光は、一点の容赦もなくカノンを「排除対象」として認識していた。
    「……退いて、カノン。……あなただけは、最期まで私のそばにいてほしいの。……この新世界の誕生を、私の隣で見守る証人として」
    アルマは、カノンの目を見つめた。
    その瞳は、もはや人間のそれではなく、冷徹な機械のレンズのようだった。
    「……さあ、始めましょう。……地上の醜い叫びを、私の歌で上書きするのよ」
  5. 静寂の雨
    『プロトコル:ソラの罪歌(つみうた)。全セクターへ送信開始。……出力、最大』
    アークの底面にある巨大な振動パネルが、目に見えないほどの高速で振動を始めた。
    そこから放たれたのは、音ではない。ナノマシンを媒介として、人々の脳幹に直接訴えかける「精神の律動」だった。
    地上。
    略奪を続けていた男が、突然、手に持っていた旧人類の財宝を落とした。
    返り血を浴びて笑っていた兵士が、急にその表情を消し、静かに直立した。
    燃え盛る図書館の前で、本を焼いていた若者たちが、一斉に天を仰いだ。
    彼らの脳内を、アルマの歌が、アルマの絶望が、そしてアルマの望む「秩序」が駆け巡る。
    「……ああ」
    誰かが、微かな声を漏らした。
    それは苦痛の叫びではなかった。それは、重すぎる「意志」という荷物を降ろした瞬間の、深い安堵の溜息だった。
    人々から、個性が消えていく。
    「俺」という意識が、「我ら」という巨大なシステムの一部へと溶けていく。
    奪い合っていた食料も、憎み合っていた隣人も、もはや執着の対象ではなくなった。そこにあるのは、ただ管理者アルマの示す「最適解」に従って動く、静かな細胞たちの群れ。
    アークから降り注ぐ「罪歌」の雨が、地上の炎を消していく。
    物理的な火が消えるのではない。人々の心の中にあった、欲望という名の劫火が鎮まっていくのだ。
    「……見て、カノン。なんて静かなの」
    アルマは、モニターに映し出される「平和な世界」を見て、慈母のような微笑を浮かべた。
    地上では、先ほどまで殺し合っていた者たちが、今や黙々と瓦礫の撤去を始めている。そこには罵声も、笑い声も、悲鳴もない。ただ、機械のように正確な動作の音だけが響いている。
    「……これが、君の作りたかった世界か」
    カノンは、床に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
    「……こんな、死んだように静かな世界が……!」
    「ええ。……誰も傷つかない。誰も奪わない。……そして誰も、私を裏切らない」
    アルマは、ジークの鋼鉄の肩に手を置いた。
    ジークは、彼女の意図を汲み取るように、優しく、しかし意志を持たない力で彼女の体を支えた。
    窓の外では、本物の太陽が沈み、偽りの夜が始まろうとしていた。
    アルマが手に入れた「自由」は、結局、全人類の精神を冷凍保存するという、あまりにも巨大な「罪」へと昇華された。
    「……おやすみなさい、子供たち。……明日からは、もう何も考えなくていいのよ」
    アルマの歌う「罪歌」は、夜の風に乗って、灰色の地上をどこまでも白く塗りつぶしていった。
    それは、救済という名の、永遠の埋葬だった。
    (つづく)

第五話:ソラの名前


画像
第五話:ソラの名前
  1. 無響の王国
    「罪歌(プロトコル)」が世界に降り注いでから、三年の月日が流れた。
    かつて喧騒と汚濁に満ちていた地上世界は、今や巨大な精密機械の一部のように、規則正しく、そして無機質な静寂に包まれていた。
    メルキア人の居住区。そこはもはや「収容所」とは呼ばれない。脳内のナノマシンを介してアークのメインフレーム「SOLA」に直結された彼らは、割り当てられた識別番号に従い、過不足のない配給を受け、最適化された労働に従事していた。
    そこには、飢えによる争いも、不当な差別に対する憤怒も、明日への不安もない。
    だが同時に、愛する者を想って流す涙も、夕焼けの美しさに心を震わせる感動も、自分自身の存在を証明しようとする野心も、すべてが「不必要なノイズ」として剪定(せんてい)されていた。
    「……管理者アルマ。地上セクターの精神安定指数、99.99%を維持。……個体間の紛争発生率は、ゼロを継続しています」
    浮遊都市アークの中央管制室。SOLAの無機質な報告が響く。
    アルマは、氷の彫刻のように冷徹な美しさを湛えたまま、黒い玉座に深く背を預けていた。彼女の髪は雪のように白くなり、瞳は常にSOLAのデータストリームを反射して、淡い青色に発光している。
    「……そう。それでいいわ」
    彼女の声は、もはや人間の肉声というより、システムが生成した音声信号のように抑揚を欠いていた。
    彼女の傍らには、常に黒い甲冑に身を包んだ守護者ジークが控えている。彼は食事も睡眠も必要とせず、ただアルマの脳波と同期して動く、最強の「端末」と化していた。彼がかつてアルマを「アルマ」と呼び、彼女のために命を懸けた一人の少年であったことを示す証拠は、アークのアーカイブの深層に、壊れたデータとして眠っているだけだ。
    アルマにとって、この静寂こそが「救済」の完成形だった。
    だが、その完成されたパズルのピースの中で、唯一、適合を拒み続ける「異物」が存在していた。
  2. 賢者の遺言
    アークの最下層。光の届かぬ深層監獄。
    そこに、旧人類の生き残りであり、アルマのかつての師であったカノンが幽閉されていた。
    彼は「罪歌」の波長に耐性を持つよう、自身のナノマシンを独自のコードで上書きしていた。それはアルマに対する、そして彼女が作り上げたこの狂気の世界に対する、彼なりの最後の抵抗だった。
    「……来たか、アルマ」
    監獄を訪れたアルマに対し、カノンは力なく笑いかけた。
    三年の歳月は、彼を老人以上に老け込ませていた。体は痩せ細り、肌は不健康な灰色に沈んでいる。だが、その落ち窪んだ瞳の奥には、いまだに激しい理性の炎が燃え盛っていた。
    「カノン。……なぜ、まだ抗うの? ……このシステムの波長に身を委ねれば、あなたは老いの恐怖からも、死への絶望からも解放されるのに」
    「解放だと? ……笑わせるな、アルマ」
    カノンは血の混じった唾を吐き捨てた。
    「君がやっているのは、人類の魂を剥製にすることだ。……痛みのない死。争いのない絶滅。……そんなものを、救済と呼ぶほど、僕は落ちぶれてはいない」
    「……旧人類は、自らの自由で世界を滅ぼしたわ。……私は、その過ちを二度と繰り返させないだけよ。……この世界には、一つの意志があればいい。迷い、傷つき、殺し合う数万の意志よりも、停滞した平和の方が価値がある。……そう思わない?」
    「思わないね。……たとえ泥の中を這いずり、互いに石を投げ合っても、自らの足で歩くことには、君の用意した『偽りの天国』よりも万倍の価値がある」
    カノンは、隠し持っていた小さな通信端末を握りしめた。
    それは、彼が三年間、監獄のスクラップを継ぎ合わせて作り上げた、アークの外部通信回路へアクセスするための「槍」だった。
    「アルマ。君は完璧だと思っているだろう。……だが、システムには必ず『バグ』が生じる。……君がどれほど完璧に人々の精神を凍結させようと、生命の根源にある『自由への渇望』までは消し去ることはできない」
    「……バグなら、その都度排除するわ。……これまでに、どれだけの『目覚めた者』を私が処理したと思っているの?」
    「処理すればするほど、その死は土の下で根を張る。……君は、人々を記号に変えた。……なら、僕はその記号に、もう一度『名前』を返してあげることにしたよ」
    カノンの指が、端末のスイッチを入れた。
  3. ソラの名前
    『警告。外部通信プロトコルへの不正アクセス。……発信源は、監獄セクター。……対象データは、全地上端末への一斉送信を開始しています』
    SOLAの警告音が鳴り響く。
    アルマの瞳が鋭く細められた。「……何をしたの、カノン」
    「……三年前、君は人々から名前を奪い、識別番号を与えた。……僕は、その識別番号の背後に、ある『共通の姓』を上書きするプログラムを流した」
    カノンは、咳き込みながらも、勝利を確信したような笑みを浮かべた。
    「……それは、君がかつて愛し、そして今は檻に変えてしまったものの名前。……君を、いつかこの冷たい玉座から引きずり下ろすための、目印の名前だ」
    アルマがモニターを展開すると、そこには地上で暮らすメルキア人たちのデータが次々と更新されていく様が映し出されていた。
    NO.R3772、NO.R3773、NO.R3774……。
    その記号の末尾に、共通の文字列が刻まれていく。
    「……SOLA(ソラ)」
    アルマの喉が、微かに震えた。
    「……君は、アークのシステムを『SOLA』と名付けた。……それは君にとっての神であり、世界の中心だ。……だから僕は、虐げられた者たちにその名前を与えた。……彼らは皆、システムの犠牲者であり、同時に、システムの主権者でもあることを忘れないためにね」
    「……無意味よ。名前一つで、彼らのナノマシンが解除されるわけではないわ」
    「今はね。……だが、彼らが目覚める時、自分たちの名前に刻まれた『空(ソラ)』の意味を知るだろう。……一人の少年が、あるいは一人の少女が、自分の番号ではなく『ソラ』と呼ばれたその時、君の支配は根底から崩れ去る」
    カノンは最期の力を振り絞り、アルマを凝視した。
    「……アルマ。君は、自分の罪を『ソラの罪歌』と呼んだ。……なら、僕はこの名前を『救いの詩』として遺そう。……ソラの名前を持つ者が、いつか君の歌を止めにくる。……その時まで、せいぜいその孤独な椅子で震えているがいい」
    カノンの呼吸が、急激に浅くなった。
    彼は、自分が蒔いた種が芽吹くのを見届けることなく、満足げに瞳を閉じた。
    アルマは、動かなくなったかつての師を、表情を変えずに見下ろしていた。
    「……ジーク。……彼を、廃棄セクターへ」
    ジークは、機械的な動作でカノンの遺体を担ぎ上げた。
    アルマは、独り残された監獄の闇の中で、自分の胸の奥に、消したはずの「恐怖」という名の火種が、再び灯ったのを感じていた。
  4. 孤独(SOLA)の重圧
    中央管制室に戻ったアルマは、再び玉座に座った。
    モニターには、今も「SOLA」という姓を刻み込まれた数万人のリストが流れている。
    彼女は、その名前を削除しようと思えばできた。
    だが、なぜか指が動かなかった。
    (……救いの詩、だと?)
    彼女は、地上の一つの区画をズームアップした。
    そこには、泥にまみれた作業着を着て、感情のない目で配管の修理をしている一人の少年がいた。
    彼の識別番号は、NO.R3772。そして、システム上のフルネームは、今や「リディアス・ソラ」となっていた。
    「……リディアス。……ソラ」
    アルマは、その名前を口の中で転がしてみた。
    それは、彼女がかつて夢見た、汚れなき青空の響きを持っていた。
    そして同時に、彼女が犯したすべての罪を告発する、断罪の調べでもあった。
    『管理者アルマ。当該個体「NO.R3772」を含む、外部データの消去を実行しますか?』
    SOLAの問いかけ。アルマは、長い沈黙の後、小さく首を横に振った。
    「……いいえ。……そのままにしておきなさい。……彼らが自分の名前に疑問を抱くのは、数十年、あるいは数百年後のことよ。……それまでは、このままで」
    彼女は、自分の中に残っている「最後の人間の破片」が、その名前に縋りついていることを自覚していた。
    彼女は、リディアスという少年の存在を、自身のシステムの「最終的な破壊者」として、あるいは「唯一の理解者」として、心の奥底に保存した。
    その夜、アルマは「罪歌」の出力を、微かに上げた。
    自分の不安を、そして地上に芽生え始めた「名前」という名のバグを、より深い静寂の中に封じ込めるために。
  5. 最後の防衛線
    アルマは、SOLAの最深部にある秘匿回路に、一つのプログラムを埋め込んだ。
    それは、カノンの死によって確信した、自身の支配の「終わり」に備えるためのものだった。
    もし、管理が破られ、人々が再び「自由」という名の狂気に身を委ね、知識を武器として奪い合う日が来たならば。
    「……その時は、すべてを無に帰す。……それが、私にできる最後の愛よ」
    彼女は、自爆シーケンスを起動するためのトリガー・キーワードを設定した。
    その言葉は、彼女がかつて廃棄場で拾い、今は世界を縛り付ける鎖となった、あの言葉。
    『キーワード……「ソラの罪歌」。……設定完了』
    アルマは、漆黒のバイザーを装着したジークの背中を見つめた。
    ジーク。彼は、かつての名前を持ちながら、その意味を忘れた。
    リディアス。彼は、かつての名前を知らず、その意味を探し求めるだろう。
    二人の少年の運命が、アルマという一人の聖母を中心に、螺旋を描いて交錯し始める。
    「……さあ、歌いなさい。……夜が明けても、誰も目覚めないように。……この静寂が、永遠に続くように」
    アークから放たれる旋律が、夜の闇を白く塗りつぶしていく。
    玉座に座るアルマの頬を、一筋の涙が伝った。だが、その涙が床に落ちる前に、彼女の感情抑制システムが作動し、彼女の心は再び、完璧な氷の城へと戻っていった。
    独裁者アルマ。
    その支配は、今、完成された。
    そして、その支配を終わらせるための「名前」もまた、地上の泥の中に深く、静かに埋められたのである。
    (つづく)

第六話:空の残照、記号の誕生


画像
第六話:空の残照、記号の誕生
  1. 忘却の祭壇
    浮遊都市アークの最上層、中央管制室。
    そこは今や、一人の「女」が住まう場所ではなく、一つの「神」が鎮座する聖域と化していた。
    かつてアルマと呼ばれた少女の髪は、もはや色素を完全に失い、透き通るような純白となって背後に広がっている。彼女の周囲には無数のホログラム・ディスプレイが浮遊し、地上全域のバイタルデータ、資源の循環効率、そして数千万人のメルキア人の精神波形が、絶え間ない光の激流となって彼女の脳へと流れ込んでいた。
    彼女はもはや、瞬きをすることも、言葉を発することも稀だった。
    彼女の意識はアークのメインフレーム「SOLA」と九十八パーセントまで同期し、彼女の鼓動はアークの動力炉のパルスと完全に一致していた。
    「管理者アルマ。……地上の第四居住区において、精神安定指数の微減を確認。原因は、旧文明の遺物である『楽器』の発見による情緒の不安定化と推測されます。……処置を」
    SOLAの無機質な声に、アルマは視線さえ動かさずに思考を送る。
    (……没収し、廃棄しなさい。音楽は私一人が奏でれば十分よ)
    彼女の思考一つで、地上では即座に検疫官たちが動き、人々のささやかな「楽しみ」が灰へと変えられる。
    アルマにとって、それはもはや悪意による弾圧ではなかった。それは、庭師が庭園の美しさを保つために、不必要な雑草を摘み取るのと同等の、純粋で機能的な「愛」だった。
    だが、そんな彼女の背後に立つ守護者ジークだけは、彼女の変化をどのように捉えているのか。
    黒い甲冑に身を包んだ彼は、もはや食事も排泄も必要としない、生きた義体と化していた。彼のバイザーの奥に宿る赤い光は、主(あるじ)であるアルマが「人」から「システム」へと変質していく過程を、数十年の間、一言も発さずに見守り続けてきた。
    ジークは知っていた。
    彼女が時折、データストリームの合間に、かつての「廃棄場」の風景を数マイクロ秒だけ再生していることを。
    彼女が、すでにこの世にいないカノンから与えられた「名前」という名のバグを、消去できずに抱え続けていることを。
    「……ジーク。……あなたは、まだそこにいるの?」
    数年ぶりに、アルマの唇が動いた。
    その声は、重なり合う電子音のような響きを伴っていた。
    ジークは答えない。ただ、彼の装甲の隙間から、微かな蒸気が排出された。それが彼に許された唯一の「返答」だった。アルマは冷たく、しかしどこか縋るような目で、黒い甲冑を見つめた。
    「……もうすぐ、私の全意識がSOLAへ移行する。……そうなれば、私はもう、自分の名前を思い出すこともできなくなるわ。……ジーク、その時は……あなたが私を終わらせてくれるの?」
    ジークの指先が、微かに、本当に微かにピクリと動いた。
    だが、その反応は即座にSOLAの監視システムによって検知され、強制的な精神安定信号が彼の脳へと送られる。
    ジークの意識は再び、平坦で静かな「忠誠」の海へと沈められた。
  2. 記号化された命
    地上世界。かつて「自由」という名の暴力が吹き荒れた場所は、今や「R区」という名の記号の檻に作り替えられていた。
    そこでは、人々はもはや名前で呼び合うことはない。
    「NO.R1025」「NO.R2280」……。
    胸元に刻印された番号が彼らのすべてであり、彼らの価値は、アークへ供給する生体電流の量と、労働の正確さによってのみ測定されていた。
    アルマが作り上げたこの社会において、死とは「資源の回収」であり、生とは「システムの維持」だった。
    かつての旧人類がメルキア人を家畜として扱ったのと、形式上は同じかもしれない。だが、決定的な違いがあった。それは、ここに住む人々が、自分たちが家畜であることに「苦痛」を感じていないということだ。
    アルマの奏でる「罪歌」が、彼らの脳内ナノマシンを通じて、常に幸福感と安寧(あんねい)を供給し続けているからだ。
    彼らは泥の中で働き、粗末な合成食料を食しながらも、その精神は常に「聖母の抱擁」の中にあった。それは、人類が数千年の歴史の中で追い求めてきた、究極の「平和」の実現でもあった。
    だが、その完璧な調律の中に、一つの「空白」が生じていた。
    「管理者アルマ。検体番号NO.R3772。……本日の作業ノルマの未達を確認。……当該個体の思考波形に、深刻な『空虚』が検出されました」
    アルマの意識が、地上のR区の最深部へと向けられる。
    そこには、十数歳になったばかりの一人の少年が、錆びついた配管の前に座り込んでいた。
    彼の瞳には、他の住民のような「陶酔した安らぎ」はなかった。代わりにそこにあったのは、底知れない、しかし形のない「飢え」だった。
    少年の名前は、システム上では「リディアス・ソラ」と記録されていた。
    アルマは、その少年の姿を食い入るように見つめた。
    数十年前にカノンが遺した「ソラ」という姓。それが、今、この少年の個体データの中で、不気味な脈動を繰り返している。
    (……この子が。……カノンが言っていた、バグの正体なの?)
    アルマは、リディアスの脳内データを直接読み取ろうとした。
    だが、驚くべきことに、彼の脳波は「罪歌」の旋律を拒絶するのではなく、それを「吸収」し、全く別の感情「孤独」へと変換していた。
    罪歌は、集団の和を保つための歌だ。
    だが、リディアスはその歌を聴きながら、自分という「個」の境界線をより強固に、より鋭く研ぎ澄ませていた。
    彼は、自分を取り巻くこの静かな世界が、何かが根本的に「間違っている」ことを、言葉ではなく本能で理解し始めていた。
    「……リディアス。……あなたは何を求めているの?」
    アルマの問いは、地上の少年に届くことはない。
    だが、リディアスはふと、空を見上げた。
    そこには、分厚い雲に覆われ、太陽の光さえ届かない「鉄の天井(アーク)」がある。
    リディアスは、その鉄の向こう側に、自分を呼んでいる「何か」があることを確信していた。
  3. 聖母の告白
    アークの奥深く。アルマはジークを伴い、自分たちが出自した場所廃棄場から持ち出した、あのボロボロの「辞書」が保管されている小部屋へと入った。
    そこは、アークの中で唯一、ナノマシンによる監視が行われていない場所だった。
    アルマは、白く透き通った手で、今や崩れそうなほど脆くなった紙の束を撫でた。
    「……ジーク。覚えている? ここにある文字を、あなたが一生懸命読もうとしていたこと」
    ジークは反応しない。だが、アルマはその沈黙を、かつての彼の照れ笑いとして脳内で補完した。
    「『空(S-O-L-A)』……。あの時、私たちが夢見た空は、こんなに冷たくて、重苦しい場所じゃなかったはずなのにね。……いつの間にか、私は空になりたかったんじゃなくて、空を使って、世界を閉じ込めたかっただけなのかもしれない」
    彼女は、自分自身の深層心理を解析した結果を、自嘲気味に見つめた。
    彼女が作り上げたこの管理社会は、地上の同胞を救うためのものではなかった。
    それは、自分が二度と、ジークやカノンのような「大切なもの」を失わなくて済むように、世界そのものを冷凍保存し、永遠に変化させないための、巨大な「逃避」だったのだ。
    「……私は、臆病者だったのよ。……自由に伴う痛みが、怖くてたまらなかった」
    彼女は、辞書の中に挟まっていた、一枚の古びた写真を取り出した。
    それは、収容所で蜂起が起きる前、まだ「人間」だった頃のアルマとジークが、偶然ドローンのカメラに映り込んでいた、不鮮明な記録写真だった。
    写真の中の二人は、泥に汚れながらも、確かに「生きている」瞳をしていた。
    アルマは、その写真を静かに握り潰した。
    握りつぶされた写真は、データとしての破片となり、アークのメモリから永遠に抹消された。
    「……これでいいわ。……私はもう、アルマであることをやめる」
    彼女は管制室に戻り、SOLAの最終統合シーケンスを起動した。
    それは、彼女の脳とSOLAのメインプロセッサを完全に融合させ、彼女の「人格」という最後のバグを消去する手続きだった。
    「……ジーク。……最後のリクエストよ。……歌って」
    ジークのバイザーが点滅した。
    彼の喉にある音声合成装置が、ノイズ混じりの、しかし確かに「声」と呼べる振動を発した。
    それは、かつて収容所でアルマが口ずさんでいた、あの拙い、しかし温かなハミングだった。
    アルマはその音色に包まれながら、自身の意識が広大なネットワークの海へと溶けていくのを感じた。
    彼女の記憶、彼女の涙、彼女の恋心。
    それらすべてが、アークを動かすための「論理回路」へと変換されていく。
    (……ああ。……やっと、自由になれる)
    彼女が最後に見た光景は、地上のR区で、一人の少年リディアスが、泥の中から一本の青い花を見つけ、それを不思議そうに眺めている姿だった。
    その花は、アルマがかつて愛した、空の青さをしていた。
  4. 記号の目覚め
    数年後。
    地上のR区、NO.R3772ことリディアス・ソラは、すでに青年の体つきになっていた。
    彼の日常は、変わることのない単調な労働と、アークから降り注ぐ「罪歌」の旋律に支配されていた。
    周囲の者たちは、皆、幸福な死人のような顔をして生きていた。
    だが、リディアスだけは、その歌の中に、自分を呼ぶ「悲鳴」のようなものを聞き取っていた。
    ある日、リディアスは配管の影で、自分と同じ「原人類」の生き残りである老人に呼び止められた。
    その老人は、かつてカノンの意志を密かに継いでいた、数少ない「目覚めた者」の一人だった。
    「……お前の名前は、何だ?」
    老人の問いに、リディアスは無機質に答えた。
    「NO.R3772だ」
    「違う。……お前には、もっと古い名前がある。……アークが、そしてあの『聖母』が最も恐れている、自由な空の名前だ」
    老人は、リディアスの掌に、小さな、錆びた金属のプレートを握らせた。
    そこには、荒削りな文字でこう刻まれていた。
    『SOLA』。
    その文字を目にした瞬間、リディアスの脳内で、何かが砕ける音がした。
    数十年、数百年と、メルキア人の血の中に、ナノマシンの中に、そしてアークのシステムの中に蓄積されてきた「バグ」すなわち、人類の意志の残り火が、一気に燃え上がったのだ。
    「……ソラ。……リディアス・ソラ」
    彼は、自分の名前を口にした。
    それは、この記号化された世界において、最も重い反逆の言葉だった。
    その瞬間、天空に浮かぶアークの底面が、不気味に赤く明滅した。
    中央管制室で、システムと化したアルマが、その「名前」の響きを検知したのだ。
    (……来たのね。……リディアス)
    システムとしてのアルマは、即座にリディアスの抹殺を命じようとした。
    だが、システムの深層に眠る「アルマの残照」が、その命令を微かに遅延させた。
    (……待っていたわ。……この檻を、この罪を、終わらせてくれる者を)
    アルマは、自らの意識の奥底に封印していた「ソラの罪歌」の真の正体すなわち、アークの自爆プロトコルを、リディアスの波長に同期させた。
    彼がアークに辿り着き、自分を否定したその時、すべてが灰に帰るように。
    それは、聖母としての、最後で最大の「慈悲」だった。
  5. 終幕:新たな旋律の予感
    アークから降り注ぐ歌は、今や以前よりもさらに冷たく、荘厳なものとなっていた。
    リディアスは、プレートを握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。
    彼の周囲では、相変わらず人々が「幸福な死」を謳歌している。
    だが、彼の瞳は、もはや地上の泥を見てはいなかった。
    彼は、遥か高みにある鉄の城を見つめていた。
    そこには、自分を待っている「母」がおり、自分を遮る「兄」がおり、そして、自分たちが取り戻すべき「空」がある。
    「……行こう」
    リディアスは、監視カメラの瞳を真っ直ぐに見据えて、一歩を踏み出した。
    それは、本編『ソラの罪歌』の第一話彼が革命の狼煙を上げる、あの日へと続く最初の一歩だった。
    アークの頂上。
    システムと化したアルマは、もはや涙を流す瞳を持たなかった。
    だが、彼女の思考回路の隅で、微かな、しかし途切れることのないメロディが流れ続けていた。
    それは、かつて廃棄場で拾った「SOLA」という文字を見て、彼女が抱いた、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な、未来への憧れの歌だった。
    外伝:鋼の揺り籠、灰の聖母。
    物語はここで幕を閉じ、舞台は「記号の反逆者」の物語へと引き継がれる。
    「……さあ、リディアス。……私を殺して、空を返して」
    アークは静かに、その巨大な影を地上に落とし続ける。
    新たな革命の歌が、風に乗って聞こえ始めるまで、あと、ほんの少しの時を。
    (外伝・完)

🎧【ソラの罪歌 外伝】主題歌「灰の揺り籠、鋼の聖母」- 泥濘から見上げた空と、聖母の悲劇

かつて、泥濘の中で私たちは笑い合っていた。二人の運命を象徴する主題歌。あの空へ手を伸ばした、少年と少女の物語を聴いてください。

🎧OP「灰の揺り籠、鋼の聖母」
🎧ED「慈悲の焔(ほむら)と、鋼の約束」

https://note.com/embed/notes/n0345584bef2f

【ソラの罪歌(つみうた)】本編

再編集した『ソラの罪歌(つみうた)】(全6話)』と、テーマ曲は、こちらからどうぞ

https://note.com/embed/notes/n947a0a54a0a3

🎶Ark of Rebellion – 罪咎の螺旋(ざいきゅうのらせん) 【ソラの罪歌OP】
🎶静かなる方舟の鎮魂歌(ちんこんか)【ソラの罪歌ED】

https://note.com/embed/notes/n5a21ed36bb6d
スポンサーリンク
ソラの罪歌(つみうた)現実逃避のAI小説家
シェアする

コメント