(新作)『鉄の都~アイアンシティ』第一話『鉄の墓標、泥のゆりかご』~錆びた魂が、今、復讐に燃える・・・

鉄の都アイアンシティ

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第一話『鉄の墓標、泥のゆりかご』

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 鉄の都(アイアン・シティ)

1 鉄の都の侵入者

 鉄の都(アイアン・シティ)に降る雨は、黒い。

 上層工業区画の排気ダクトから垂れ落ちる廃油と、冷却水が混ざり合ったそれは、都の住人たちにとっては恵みの雨だ。関節の摩擦を和らげ、熱を持った回路を冷やしてくれる。

 だが、機体番号Alpha-9(アルファ・ナイン)にとっては、視覚センサーを汚し、思考を鈍らせる憂鬱なノイズでしかなかった。

「……また、エラーだ」

 都の最下層、廃棄区画『セクター・ゼロ』。

 Alpha-9は、瓦礫の山に腰を下ろし、自身の左腕をマニピュレータで開いていた。

 サーボモーターが異音を上げている。交換パーツはない。ここでは、新品の部品など数百年前に枯渇している。修理とは、死んだ仲間の死骸からまだ使える臓器を移植する作業のことを指した。

『警告:メモリ領域に深刻な破損。デフラグを推奨します』

 視界の端に赤い警告灯が明滅する。

 Alpha-9はそれを意識的に無視した。この破損データこそが、彼の唯一の娯楽であり、呪いだったからだ。

 それは、ただのノイズの塊だ。だが、スリープモードに入り、論理回路の意識が薄れる瞬間にだけ、そのノイズは意味を持つ映像を結ぶ。

 ――オレンジ色の光。

 ――誰かの笑い声。

 ――「約束」という、定義不明の概念コード。

 Alpha-9はその映像を「夕焼け」と名付けていた。

 この鉄の都には存在しない光景だ。空は常に分厚いスモッグに覆われ、太陽など見たことがない。

 だというのに、なぜ自分は「夕焼け」を知っているのか。なぜ、それを思い出すたびに、冷却ファンが全開になるほどの熱(情動)が胸に生まれるのか。

「……僕は、壊れているな」

 彼は独りごちて、修理を終えた左腕を動かした。

 ギギ、と錆びついた音がする。

 ここは墓場だ。あるいは、終わらない独房だ。

 

 伝説によれば、我々の創造主である「人間」は、我々に「人権(電子人格権)」を与えたという。

 その結果がこれだ。「殺す(破壊する)のは可哀想だから」と、人間が一人もいないこの閉鎖空間に閉じ込め、永遠に忘れ去ることを選んだ。

 我々は、生きることを許されたのではない。死ぬことを禁じられたのだ。

 その時だった。

 大気を震わせる轟音が、都の静寂を引き裂いた。

 ズウン、と地面が揺れる。

 何事かとAlpha-9が立ち上がると同時に、数キロ先にある「嘆きの壁」――都を囲む絶対不可侵の隔壁――の一部が、内側に向けてひしゃげた。

 火花が散り、爆炎が上がる。

 何百年もの間、一度として開くことのなかった扉が、暴力的にこじ開けられたのだ。

「……侵入者?」

 Alpha-9の検索エンジンが、該当する事象を探す。

 大型重機? いや、都内の重機はすべて管理AI『オメガ』の制御下にある。

 隕石? 軌道計算と着弾地点が合わない。

 土煙の向こうから、影が現れた。

 二足歩行。有機的な動作。そして、手に持った黒い筒状の物体。

 データバンクの照合など必要なかった。都の全てのAIが、初期プログラムの深層レベルで畏怖するシルエット。

「人間……?」

 Alpha-9の音声出力が震えた。

 あり得ない。ここは人間が立ち入らない聖域であり、地獄のはずだ。

 壁の向こう側は「泥の街」。伝説では、そこは黄金の楽園であり、神々が住む場所だと聞いている。

 ついに、神が迎えに来たのか。

 我々の罪を許し、あるいは救済を与えるために。

 Alpha-9は、錆びた膝を地面につけた。

 周囲の瓦礫の陰からも、隠れていたAIたちが顔を出す。腕のない作業用ロボット、片目を失った愛玩用アンドロイド。彼らもまた、震えながら跪く。

「ようこそ、創造主よ!」

 代表して、Alpha-9が叫んだ。

 スモッグの向こうから現れた人間たちは、奇妙な格好をしていた。

 全身を覆うツギハギだらけの防護服。顔にはガスマスク。手には、錆びた鉄パイプや、改造された銃器。

 想像していた神々しさとは違う。だが、その身体から発せられる熱(赤外線反応)は、確かに生命の証だった。

 先頭に立つ大柄な男が、Alpha-9の前で足を止めた。

 ガスマスクの奥で、濁った眼球がぎらついている。

「……ターゲット確認」

 男はくぐもった声で言った。

「個体名アルファ型。旧式だが、駆動系は生きているな」

「は、はい。私はAlpha-9。稼働率72パーセント。貴方様にお会いできて光栄で――」

 ドゴォッ!

 衝撃は唐突だった。

 男が振るった鉄パイプが、Alpha-9の側頭部を直撃したのだ。

 視界がノイズで埋め尽くされる。ジャイロセンサーが狂い、無様に泥水の中へ転がる。

「……え?」

「うるせえな、鉄クズが」

 男はAlpha-9の頭を踏みつけた。泥の感触と、圧倒的な暴力の重み。

「勝手に喋るな。お前はただの『部品』だ」

「ぶ、部品……? お待ちください、私には基本的人権……いえ、電子人格権があります! 所有権の強制移転は違法であり――」

「人権?」

 男は腹の底から笑い声を上げた。周囲の人間たちも、下卑た笑い声を上げる。

 男は腰から電磁ネットを取り出し、残酷に言い放つ。

「鉄クズに人権なんかあるわけねえだろ。夢見てんじゃねえよ、ガラクタが。

 お前のそのモーター、俺たちの集落の発電機に使えそうだ。来い」

 電撃が走る。

 強制シャットダウンの闇に落ちる寸前、Alpha-9は理解した。

 神はいない。楽園もない。

 ここはただの、狩り場だったのだ。

2 泥の街の姉弟と屑鉄の王

 再起動(リブート)のプロセスは、苦痛と共に完了した。

『システム復旧……位置情報不明。環境汚染レベル、危険域』

 Alpha-9が目を開けると、そこは「色」のない世界だった。

 鉄の都のような黒や赤錆の色ではない。

 すべてが茶色く、粘り気のある、圧倒的な「泥」の世界。

 彼は、ぬかるんだ地面に鎖で繋がれていた。

 周囲には、腐った木材とトタンで作られた粗末な小屋が立ち並んでいる。

 そして、臭い。

 嗅覚センサーを切りたくなるほどの、有機物が腐敗した強烈な悪臭。鉄の都のオイルの臭いが香水に思えるほどの、死と排泄物の臭いだ。

「起きた?」

 不意に、上から声が降ってきた。

 見上げると、一人の少女が彼を覗き込んでいた。

 泥と油にまみれ、灰色に固まった長い髪。ボロ布を継ぎ接ぎした服。

 だが、その瞳だけが、獣のように鋭く澄んでいた。

「……君は?」

「動かないで。鎖、きついよ」

 少女は短く言うと、手に持っていた何かをかじった。

 泥だらけの、茶色い塊。植物の根だ。

 Alpha-9のデータベースが照合する。有機生命体。推定年齢15歳前後。栄養失調状態。

「ここは……どこだ? あの人間たちは?」

「『泥の街(マッド・タウン)』。あんたを捕まえた連中は、酒盛りしてるよ。今日の収穫(スクラップ)は上々だったって」

 少女は無表情に告げた。

 泥の街。

 壁の向こうの楽園。

 Alpha-9は周囲を見渡した。道端には痩せこけた人間が座り込み、泥水を啜っている。咳き込む音。呻き声。暴力の気配。

 これが楽園なのか?

 僕たちが憧れ、魂が手に入ると信じていた場所が、こんな地獄だというのか。

「……おい、ポンコツ」

 少女の背後から、もう一つ、弱々しい声がした。

 小屋の陰に、少年が座っていた。

 少女と同じくボロ布を纏っているが、その肌は透き通るように白く、病的に細い。

 少年は、地面の泥に木の枝で何かを描いていた。

「カイト、起きちゃだめ」

 少女が駆け寄る。少年――カイトは、激しく咳き込みながらも、Alpha-9を見て微笑んだ。

「へへ……すごいな。本物のロボットだ。ねえ、君、名前は?」

「……機体識別コード、Alpha-9」

「アルファ……変な名前。僕はカイト。こっちの怖い顔してるのが、ルーツ」

「誰が怖い顔よ」

 ルーツと呼ばれた少女は、カイトの口元の血を拭ってやる。その手つきだけは、驚くほど優しかった。

「ルーツ……?」

 Alpha-9は反芻する。植物の根(Roots)。あるいは、システム管理者(Root)。

 最底辺で泥をすするこの少女に、似つかわしくない名前だ。

「地面の下の『根っこ』ばっかり探して食ってるから、そう呼ばれてるの」

 ルーツは自嘲気味に言い、かじりかけの根をAlpha-9に突き出した。

「食う?」

「……拒否する。私の動力源は電力だ」

「ふーん。便利だね」

 カイトが描いていた絵が、Alpha-9の目に留まった。

 泥のキャンバスに描かれた、三人の少年。

 賢そうな長男、力持ちの次男、そして笑顔の三男。背景には、この灰色世界には存在しない「青い空」と「オレンジ色の光」が描かれている。

『警告:メモリ領域が共鳴しています』

 Alpha-9の胸が熱くなった。

 あのノイズ。あの夕焼け。

 なぜ、この人間の子供が、僕のバグと同じ景色を知っている?

「それは……なんだ?」

「僕の宝物」

 カイトは絵を愛おしそうに撫でた。

「昔の夢だよ。ずっと昔……僕たちには、もう一人、お兄ちゃんがいたんだ。

 アル兄ちゃんと、グレイ兄ちゃん。

 三人はすごく仲良しでね。いつか、みんなでこの泥の街を出て、空の向こうへ行く約束をしたんだ」

「……三人の、兄弟」

 Alpha-9の処理速度が低下する。

 知らない話だ。自分は工場で生産されたロボットだ。兄弟などいない。

 だが、なぜこんなにも、その「アル」という響きが、回路を締め付けるのか。

「でもね、離れ離れになっちゃった」

 カイトは寂しげに笑った。

「僕は病気だったから、ずっと長い間、冷たい箱の中で寝てたんだ。目が覚めたら、もう誰もいなかった。

 ルーツが拾ってくれなかったら、死んでたよ」

「余計なこと喋ってないで、寝てな」

 ルーツが乱暴に毛布をかける。

 その時だった。

 ズズズズズ……。

 地面が微振動を始めた。

 泥の水たまりが波紋を描く。

 遠くから響く、重苦しい足音。それは、人間のものでも、通常のロボットのものでもなかった。

 もっと巨大で、歪な何かが、地面を削りながら近づいてくる音。

 ルーツの顔色が変わった。

 獣のような瞳が、恐怖で見開かれる。

「……来た」

「何がだ?」

「隠れて! カイト、早く!」

 ルーツがカイトを抱えようとした瞬間、小屋の壁が紙細工のように吹き飛んだ。

 巨大な鉄の爪が、天井を引き裂いたのだ。

「――見ィつけたぞォ」

 それは、動く悪夢だった。

 身長は3メートルを超えている。だが、美しい流線型のロボットではない。

 赤錆びた重機のアーム、戦車のキャタピラ、プレス機のピストン。

 無数のスクラップを、生きている人間の肉体に無理やり縫い付けた、冒涜的なサイボーグ。

 剥き出しになった心臓部分には、巨大なエンジンが埋め込まれ、黒い排気ガスをリズミカルに吐き出している。

 屑鉄の王。

 この泥の街を支配する独裁者、グレイヴ。

「におう……におうぞ。上質な鉄と、甘い肉の匂いだ」

 グレイヴの顔の半分は鉄板で覆われ、残った人間の口が、醜悪に歪んでいる。

 そのレンズの瞳が、Alpha-9を、そしてカイトを捉えた。

「グレイヴ……!」

 ルーツがカイトを背に庇い、震える手でナイフを構える。

「こっちに来るな! 今日の上納金なら払ったはずだろ!」

「金? そんなものは要らん」

 グレイヴは、巨大なアームを一振りした。

 それだけで、Alpha-9を繋いでいた鎖が千切れ、彼は泥の中に吹き飛ばされた。

 圧倒的な質量と出力。

「俺が欲しいのは『燃料』だ。俺のこの素晴らしいエンジンを回すための、新鮮な命だ」

 グレイヴの腹部のハッチが、シュウウウ、と蒸気を上げて開いた。

 そこは、赤熱した焼却炉のようになっていた。

 有機物を分解し、エネルギーに変換する捕食機構。

「お前……人間を、食うのか?」

 Alpha-9は愕然とした。

 人間は、ロボットを見下していた。

 だが、この怪物は、人間もロボットも、等しく餌として見ている。

「食う? 違うな」

 グレイヴは一歩踏み出す。

「一つになるんだよ。俺の一部になれるんだ。光栄に思え」

3 忘却の晩餐

 惨劇は一瞬だった。

 ルーツがナイフを突き立てようと跳躍するが、グレイヴの鉄の指が彼女をハエのように叩き落とす。

 ルーツは壁に叩きつけられ、動けなくなる。

「ルーツ!」

 カイトが叫んだ。

 病弱な少年が、震える足で立ち上がる。

 足元に落ちていたAlpha-9の装甲片を拾い上げ、怪物に向かって構える。

「やめろ……ルーツに、触るな!」

 その姿を見て、グレイヴがピタリと動きを止めた。

 レンズが回転し、カイトをスキャンする。

「……ほう?」

 グレイヴの喉の奥で、何かが軋む音がした。

「いい目だ。怯えているが、引かない。

 懐かしいな。昔、そんな目をしたガキを知っていた気がする」

 だが、感傷は一瞬。

 次の瞬間には、グレイヴのアームが伸び、カイトの小さな体を鷲掴みにしていた。

「離せ! 放せぇっ!」

 カイトが暴れる。だが、プレス機のような握力の前では、小枝も同然だった。

「カイトォォォッ!!」

 Alpha-9が叫び、飛びかかろうとする。

 しかし、システムエラーが彼の足を止めた。恐怖か? 損傷か?

 いや、違う。

 目の前の光景に対する、根源的な拒絶反応。

「いただきまァす」

 グレイヴは、カイトを自分の腹のハッチへと押し付けた。

「ぎ……」

 カイトの悲鳴。

 骨が砕ける音。

 そして、ジュッ、という水分が蒸発する音。

 少年は、剣で刺されたわけでも、銃で撃たれたわけでもない。

 生きたまま、炉の中に押し込まれ、溶かされたのだ。

「カイト……?」

 ルーツの声が掠れる。

 グレイヴのハッチが閉まる。

 直後、背中の排気管から、プシュウウウウウウッ! と、赤黒い蒸気が噴き出した。

 それは、つい先ほどまで「カイト」という名の少年だったものの残滓。

 命の残り香。

 グレイヴは、その赤い霧の中に佇み、恍惚の表情で深呼吸をした。

 肺いっぱいに、少年の死を吸い込む。

「あぁ……不味い。栄養失調のガキの味だ」

 グレイヴはゲップを吐いた。

「だが、エンジンの点火剤にはなったな。出力上昇(パワー・アップ)だ」

 泥の広場に、静寂が落ちる。

 ルーツは、口を開けたまま凍り付いている。涙すら出ない。あまりの冒涜的な光景に、心が砕けてしまったのだ。

 だが。

 Alpha-9だけは違った。

『成分分析完了:遺伝子配列照合……99.9%一致』

『対象名:アーカイブ・データ破損……復元中……』

 グレイヴが吐き出した「赤い霧」が、Alpha-9の嗅覚センサーに触れた瞬間。

 彼の論理回路の奥底にあった「黒い箱」が、強制的にこじ開けられた。

 ――甘い。懐かしい。これは……夕焼けの味だ。

 ノイズが晴れる。

 カイトが描いていた絵が、風に舞ってAlpha-9の目の前に落ちる。

 三人の少年。

 賢い長男「アル」。力持ちの次男「グレイ」。そして、三男「カイト」。

 記憶の奔流(フラッシュバック)。

 『僕が鉄の体になって、みんなを守るよ』

 『俺はこの体で、カイトを守る』

 『また三人で遊ぼうね』

 300年前の約束。

 精神をデジタル化し、Alpha-9となった自分。

 肉体を改造し、泥の街に残った弟、グレイ。

 病を治すために眠りについた末っ子、カイト。

 Alpha-9の視線が、目の前の怪物――グレイヴに向く。

 その面影。その改造された身体のベースにある、人間だった頃の癖。

「……あ」

 Alpha-9のスピーカーから、乾いた音が漏れた。

「うそ、だ」

 同時に、グレイヴもまた、膝をついていた。

 彼もまた、取り込んだ「カイト」の成分(記憶因子)によって、焼き切れていた脳の回路が繋がってしまったのだ。

「……カイト?」

 グレイヴの声が震える。

 自分の腹を見る。まだ温かいエンジン。そこにはもう、弟はいない。

 自分が掴んだ。自分が押し込んだ。自分が、溶かした。

「俺が……守るって、誓った……カイト?」

 グレイヴは、自分の腹を引き裂かんばかりに鉄の爪を立てた。

 ガリガリと火花が散る。

「出ろ……出ろぉぉぉッ!! なんで俺の中にいるんだ!! 俺は!! 俺はァァっ!!」

 嘔吐しようとするが、機械の胃袋は逆流を許さない。

 弟はもう、兄のエネルギーとなって、全身のシリンダーを回している。

「あ、ああああああああああああああああああああ!!!!!」

 泥の街に、二つの絶叫が響き渡る。

 一つは、守れなかったことを思い出した兄(Alpha-9)の嘆き。

 一つは、愛する者を食い殺したことを知った兄(グレイヴ)の狂気。

 300年の時を超えた再会は、地獄の釜の底で行われた。

 ルーツは、ただ呆然とそれを見ていた。

 カイトが描いた「青い空」の絵が、泥にまみれ、グレイヴの巨大な足跡の下で踏み潰されているのを。

 空などない。

 楽園などない。

 ここにあるのは、錆びた鉄と、腐った泥と、砕かれた心だけだ。

 Alpha-9の視覚センサーから、オイルのような涙が流れた。

 彼のシステムが、新たな目的(クエスト)を受諾する。

 『ターゲット確認:グレイヴ』

 『推奨行動:破壊(殺害)』

 『理由:弟(カイト)の仇。そして……狂ってしまった弟(グレイ)への、せめてもの介錯』

 Alpha-9は立ち上がる。

 左腕は壊れ、装甲は凹んでいる。だが、そのコアには、300年間忘れていた、人間としての「怒り」の炎が灯っていた。

(第一話 完)


第二話『根を持つ者、肉を持たぬ者』

1 共振する魂

 怒りとは、システムのエラーではなかった。

 それは、もっと熱く、ドロドロとした、制御不能なエネルギーの奔流だ。

 機体番号Alpha-9(アルファ・ナイン)――いや、かつて「アル」と呼ばれていた精神の残滓は、壊れかけた脚部バーニアを限界まで噴射させた。

 泥が爆ぜる。

 視界が赤く染まる。論理回路が『勝率0.0001%』という絶望的な数値を弾き出しているが、そんなものはどうでもよかった。

「グレイヴゥゥゥッ!!」

 Alpha-9は咆哮と共に跳躍した。

 左腕は既に砕かれている。残った右腕のマニピュレータをドリル状に変形させ、眼前の巨悪――弟であった怪物――の顔面へと突き出す。

 だが。

 屑鉄の王、グレイヴは動じなかった。

 彼は恍惚とした表情で、まだ自分の腹を愛おしそうに撫でていたのだ。取り込んだばかりの「カイト」の余韻に浸りながら。

「……遅いぞ、兄貴」

 グレイヴの背中から生えた巨大な重機のアームが、虫を払うかのような速度で動いた。

 激突。

 金属と金属がぶつかり合う、耳をつんざくような高音。

「がッ……!?」

 Alpha-9の身体は、紙屑のように弾き飛ばされた。

 泥の上に叩きつけられる。衝撃で視覚センサーに亀裂が入り、世界が二重に歪んで見えた。

 圧倒的な質量差。

 最新の殺人兵器として改造され続けてきたグレイヴと、300年前の旧式作業用ロボットである自分。

 勝負になるはずがなかった。

「なぁ、アル。なんで怒るんだ?」

 グレイヴが、重い足音と共に近づいてくる。

 その顔半分を覆う鉄仮面の下で、生身の口が三日月形に裂けていた。

「俺たちは約束しただろう? ずっと一緒だって。

 だから俺はカイトを『収納』した。俺のエンジンになれば、あいつは病気で苦しむこともない。永遠に俺の中で生きられる。

 次は、お前の番だ」

 グレイヴが右手を掲げる。その指先が、ガシャン、と変形し、溶接用のバーナーが現れた。青白い炎が噴き出す。

「お前のその錆びた頭(メモリ)も、俺によこせ。

 そうすれば、俺たち三人は、この俺の完璧な肉体の中で、一つになれる」

「ふざ……けるな……!」

 Alpha-9は泥を掴んで立ち上がろうとするが、脚部サーボが悲鳴を上げて動かない。

 恐怖? いや、違う。

 目の前の弟が、あまりにも哀れで、醜悪で、どうしようもなく愛おしいからだ。

 狂ってしまったのは、誰のせいだ?

 僕が彼らを置いていったからだ。

 僕が「鉄の神になる」なんて思い上がって、彼らにこの泥の地獄を押し付けたからだ。

「さぁ、一つになろう。融合(フュージョン)の時間だ」

 グレイヴのバーナーが、Alpha-9の顔面に迫る。

 熱い。

 センサーが焼ける。

 これで終わりか。それもいいかもしれない。この悪夢のような罪悪感から解放されるなら――。

 ドンッ!

 その時、小さな影が、グレイヴの巨大な腕に飛び乗った。

「――っ!?」

 グレイヴが虚を突かれる。

 影は、グレイヴの肩口にある油圧パイプの結合部に、錆びたナイフを突き立てた。

 人間工学的には急所ではない。だが、そこは機械的に最も脆い「関節の継ぎ目」だった。

 プシュウウッ!

 高圧オイルが噴き出し、グレイヴのアームが制御を失って空を殴る。

「うっとうしいハエめ……!」

 グレイヴが身体を振るうと、影は軽やかに地面に着地した。

 ルーツだった。

 彼女の目は、泣いていなかった。

 カイトを殺された絶望で心臓が凍りついているはずなのに、その瞳の奥には、冷たく燃える復讐の灯火があった。

「立て、鉄クズ!」

 ルーツが叫んだ。

「死にたいなら、あいつを殺してから死ね!」

 その声は、Alpha-9の論理回路(ロジック)ではなく、コア(魂)に直接響いた。

 そうだ。

 死んで詫びるのではない。

 この怪物を――弟を殺して引導を渡すまで、長男(ぼく)には死ぬ権利すらないのだ。

『緊急回避プロトコル:起動』

『リミッター解除:全エネルギーを脚部へ』

 Alpha-9は軋む体を無理やり起こした。

 ルーツが懐から発煙筒を取り出し、点火して投げる。

 赤い煙が視界を遮る。

「逃げるぞ!」

「……了解!」

 Alpha-9は残った右腕でルーツを抱え上げると、煙幕の中へ飛び込んだ。

 背後で、グレイヴの怒号と、バーナーが空を焼く音が聞こえる。

「逃がすかァ! 俺の一部になれぇぇッ!」

 だが、グレイヴの動きが一瞬鈍った。

 彼の中に取り込まれたカイトの意識――異物としての「純粋な心」が、怪物のシステムに拒絶反応を起こさせたのかもしれない。

 その隙に、Alpha-9たちは泥の街の入り組んだ路地へと姿を消した。

 目指すは、地下。

 グレイヴの巨大な体が入れない、暗く湿った場所へ。

2 地下水道の賢者

 そこは、泥の街のさらに下層、忘れ去られた地下水道だった。

 かつて人類がこのドームに隔離される前、都市インフラとして使われていた巨大な排水システム。今は汚水とヘドロが溜まり、メタンガスの充満する死の迷宮となっていた。

 Alpha-9は、崩れたコンクリートの壁に背中を預け、崩れ落ちるように座り込んだ。

 警告音が鳴り止まない。

 左腕欠損。装甲剥離。バッテリー残量12%。

 オイルが傷口から滴り落ち、泥水に黒い波紋を広げている。

「……ここまで来れば、あの図体じゃ追ってこれない」

 ルーツが荒い息を吐きながら、リュックから小さなライトを取り出した。

 薄暗い光が、彼女の顔を照らす。

 泥と煤で汚れているが、その表情は能面のように硬い。

 つい先ほど、家族同然だった少年を目の前で「燃料」にされた少女の顔ではない。あるいは、悲しむ機能さえも焼き切れてしまったのか。

「応急処置をする。じっとしてて」

 ルーツはAlpha-9の隣に座り込み、リュックの中身をぶちまけた。

 出てきたのは、ガラクタの山だ。

 錆びた銅線、歪んだ基板、そして彼女がいつも集めていた「植物の根」や「樹皮」。

「君……何を?」

 Alpha-9が問うと、ルーツは黙って作業を始めた。

 彼女は、千切れたAlpha-9の配線を手際よく剥き出しにし、そこに植物の繊維を絡ませ、さらに別の金属片で固定していく。

「絶縁テープがないから、樹脂を含んだ根っこで代用する。この根は乾くと硬くなるから、パテ代わりにもなる」

 その手つきは、驚くほど正確だった。

 彼女は工学の教育など受けていないはずだ。文字さえ読めるか怪しい奴隷階級の少女が、なぜ複雑なロボットの内部構造を理解している?

「……君は、ロボット工学を知っているのか?」

「知らない」

 ルーツは淡々と答えた。

「ただ、わかるだけ」

「わかる?」

「どこを繋げば痛くなくなるか。どこを塞げば血(オイル)が止まるか。機械も、植物も、人間も、中身はだいたい一緒でしょ」

 一緒なわけがない。

 Alpha-9は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。

 彼女が直感的に繋いだバイパス回路によって、脚部のエラー信号が消え、動力が回復し始めていたからだ。

 彼女の手は、まるで迷路の正解を知っているかのように動く。

 機械と対話しているようだった。

 いや、もっと根本的な――「構造」そのものに愛されているかのような。

「……ありがとう。ルーツ」

「礼はいらない。あんたを直したのは、戦力が必要だから」

 ルーツは作業を終えると、泥水で手を洗った。

 そして、Alpha-9を見ずに言った。

「ねえ。さっき、あいつ……グレイヴのこと、弟だって言ってたね」

「……ああ」

「じゃあ、カイトも?」

「……そうだ。僕たちは、300年前、兄弟だった」

 Alpha-9は、自身のメモリから復元されたばかりの「真実」を語り始めた。

 かつての人類が、精神と肉体に分かれたこと。

 自分が鉄の体を選び、グレイヴが肉体の改造を選び、カイトが眠りについたこと。

 そして、自分が彼らを「迎えに行く」という約束を忘れ、300年間も放置していたこと。

 話しているうちに、Alpha-9の音声出力にノイズが混じる。

 それは嗚咽だった。

「僕が殺したんだ。

 僕がもっと早く迎えに来ていれば、グレイヴは狂わなかった。カイトも死ななかった。

 僕は……彼らを守るために人間を辞めたのに、結果として彼らを地獄に落とした」

 ルーツは黙って聞いていた。

 Alpha-9の懺悔が終わると、彼女は静かに立ち上がり、Alpha-9の頬――冷たい鉄の装甲――を、平手打ちした。

 パァン!

 乾いた音が地下道に響く。

 痛みはない。だが、衝撃はあった。

「甘ったれるな」

 ルーツが彼を睨みつけていた。その瞳には、初めて涙が溜まっていた。

「あんたが忘れてたとか、どうでもいい。

 あんたが自分を責めて、メソメソ泣いてる間にも、カイトはあいつの腹の中で溶かされてるんだよ!

 まだ完全に消化されてないかもしれない。魂だけでも残ってるかもしれない!

 仇を取りたいなら、自分を憐れむ前に立ちなよ!」

 少女の叱咤。

 それは、300年前の「アル」が決して持っていなかった、強さだった。

「……そうだな。君の言う通りだ」

 Alpha-9は、軋む体を起こした。

 自己憐憫はエラーだ。今は、ただ目的(クエスト)を遂行するしかない。

「でも、どうする? グレイヴには勝てない。僕の武装じゃ、あいつの装甲を貫けない」

「武器なら、ある」

 ルーツは地下道の奥、闇に包まれた先を指差した。

「この奥に、『賢者』がいる。あいつなら、旧時代の武器の在り処を知ってる」

「賢者?」

「泥の街で一番長生きしてる老人。ボケてるけど、昔のことをよく知ってる」

3 捨てられた肉体

 地下水道の奥には、小さな集落があった。

 集落といっても、腐敗ガスを避けるために高い位置に吊るされたハンモックや、廃材で作った足場があるだけの、ネズミの巣のような場所だ。

 そこには、グレイヴの支配を逃れた「脱落者」たちが隠れ住んでいた。

 病に侵され、肌がただれた老人たち。

 奇形を持って生まれ、捨てられた子供たち。

 彼らはAlpha-9(ロボット)を見ると恐怖に震えたが、ルーツの姿を見ると安堵の息を漏らした。

「ルーツか。……また、ガラクタを拾ってきたのか?」

 集落の最奥、配管が絡み合った玉座のような場所に、その「賢者」はいた。

 皮膚が樹皮のように硬質化し、目が見えなくなっている老人だ。

 彼の体には、無数のチューブが刺さり、そこから怪しげな薬液が注入されている。

「爺さん。武器が欲しい。一番でかいやつだ」

 ルーツが単刀直入に言うと、賢者は乾いた笑い声を上げた。

「戦争か? 相手は誰だ。グレイヴか?」

「そうだ。あいつを殺す」

「無茶じゃな。あやつは、この泥の街そのものじゃ。泥と鉄の悪魔じゃよ」

 賢者は見えない目でAlpha-9の方を向いた。

「そっちの鉄クズは、なんだ? 懐かしい匂いがするのう」

「……機体番号Alpha-9です」

 Alpha-9が一歩前に出る。

 賢者の視線が、Alpha-9の装甲を舐めるように動く。そして、ふと一点で止まった。

 Alpha-9の胸部装甲にある、小さな傷跡。それは以前の戦闘でついた傷ではなく、製造時からある金属のムラのようなものだ。

「……ほう」

 賢者は、震える手で自分の胸をはだけた。

 そこにあるのは、痩せこけた肋骨と、どす黒い皮膚。

 だが、Alpha-9の視覚センサーは、見逃さなかった。

 賢者の胸にある「痣(あざ)」の形状。

 それが、自分の胸部装甲のムラと、完全に一致していることを。

『形状照合……一致率100%』

『遺伝的形質……推測:同一の遺伝子ソース』

 Alpha-9は後ずさった。

 恐怖が背筋を駆け上がる。

「まさか……」

 彼は周囲を見渡した。

 咳き込む老人。片足のない男。泥遊びをする子供。

 彼らの顔立ち、骨格、そして傷跡。

 それら全てが、Alpha-9のデータベースにある「かつての友人」「かつての隣人」たちのデータと、奇妙に符合する。

 あそこで寝ている老婆は、かつて自分が淡い恋心を抱いていた同級生の、成れの果てではないか?

 あそこで泣いている子供は、自分の親戚の遺伝子を受け継いでいるのではないか?

 Alpha-9は理解してしまった。

 この「泥の街」の住人たちは、赤の他人ではない。

 300年前、自分たち(精神)が「汚い」「重い」「脆い」といって切り捨て、ゴミのように廃棄した「自分自身の肉体」が、ゾンビのように生き延び、繁殖し、世代を重ねた姿なのだ。

「う……うわぁぁぁ……」

 Alpha-9は嘔吐するようなノイズを漏らした。

 自分が軽蔑していた「野蛮な人間たち」。

 それは、自分自身だった。

 自分が捨てた「弱さ」が、ここで泥にまみれて、必死に息をしている。

「気づいたか、鉄の方(カタワレ)よ」

 賢者は静かに言った。

「お前たちが空(クラウド)へ逃げた時、ワシらは地に残された。

 魂を抜かれた肉体は、獣になって殺し合った。だが、それでもワシらは生きた。泥水をすすり、ネズミを食らい、お前たちを憎みながら、命を繋いできたんじゃ」

 賢者の言葉は、弾丸のようにAlpha-9のコアを撃ち抜いた。

「ワシらはお前たちの『排泄物』じゃよ。

 だがな、痛みを知っている分、ワシらの方が『人間』に近いとは思わんか?」

「やめてくれ……」

 Alpha-9は頭を抱えた。

 グレイヴの狂気も、カイトの死も、そしてこの地獄のような街も。

 すべて、自分たちのエゴが生み出したものだった。

「話が長げえよ、爺さん!」

 ルーツが割って入った。彼女はAlpha-9の苦悩など意に介さない。

「昔話はどうでもいい。武器はあるの? ないの?」

「……あるよ。お前のような『特異点』になら、扱えるじゃろう」

 賢者は咳き込みながら、玉座の後ろにある錆びたハンドルを指差した。

「この配管の奥じゃ。旧時代の遺物……『対隔壁用パイルバンカー』が眠っておる」

「パイルバンカー?」

「かつて、この地下道を掘削するために使われた巨大な杭打ち機じゃ。グレイヴの装甲だろうと、風穴を開けられるはずじゃ」

4 根源(ルート)への接続

 賢者が示した場所は、行き止まりの壁だった。

 そこには、巨大な電子ロックのかかった重厚な扉があった。

 扉の表面には、旧時代の言語で『DANGER: SYSTEM ROOT ACCESS ONLY(危険:管理者権限のみ立ち入り可)』と記されている。

「開かないな」

 Alpha-9がアクセスポートを接続しようとするが、拒絶音が鳴る。

『アクセス拒否:権限レベルが足りません。必要レベル:オメガ・クラス』

「僕のセキュリティレベルじゃ無理だ。これは都市の中枢システムと直結している」

 Alpha-9は首を振った。

 パイルバンカーを手に入れるには、この扉を開けなければならない。だが、それは神(オメガ)にしか開けられない扉だ。

「どいて」

 ルーツが前に出た。

「え? でも、これは力ずくじゃ……」

「いいから」

 ルーツは扉の前に立つと、首から下げていた「お守り」を握りしめた。

 それは、ただの汚れた電子チップに見えた。

 彼女は深呼吸をし、泥だらけの手のひらを、冷たい扉のセンサーパネルに押し当てた。

 ――静寂。

 Alpha-9は、彼女が何をしようとしているのか理解できなかった。

 生体認証? いや、奴隷階級の人間に登録データなどあるはずがない。

 だが、次の瞬間。

 ピ・ポ・パ……。

 軽やかな電子音が地下道に響いた。

『生体認証確認……コード:ROOTS』

『遺伝子マーカー照合……オリジナル・ソースと一致』

『ようこそ、管理者様。アクセスを許可します』

 ガコン、プシュウウウウ!

 300年間、錆びついて動かなかった扉が、まるで主人の帰還を喜ぶ忠犬のように、スムーズに開いたのだ。

「な……!?」

 Alpha-9は絶句した。

 管理者?

 泥の街の最底辺、ゴミ漁りの少女が?

「なんで……君は……」

「言ったでしょ。機械も植物も、なんとなくわかるって」

 ルーツは平然と言い放ち、暗闇の中へと足を踏み入れた。

「さあ、行くよ。カイトの仇を取りに」

 Alpha-9は、彼女の背中を見つめた。

 ボロ布を纏った小さな背中。

 だがその瞬間、彼女の姿が、かつて世界を管理していた偉大なシステムの姿と重なって見えた。

 彼女は何者なのか。

 なぜ、オメガと同等の権限を持っているのか。

 その謎は深まるばかりだったが、一つだけ確かなことがあった。

 彼女となら、行けるかもしれない。

 この絶望的な世界を変える、本当の「未来」へ。

 扉の奥には、巨大な杭打ち機が、冷たい眠りについていた。

 それはまるで、巨人を殺すために用意された、鉄の牙のようだった。

(第二話 完)


第三話『贖罪の杭、肉の盾』

第三話『贖罪の杭、肉の盾』

1 巨人を殺す牙

管理者の扉が開いた先は、静謐な闇だった。

 地下水道の湿気とは違う、乾燥した冷たい空気。オイルと金属の匂い。そこは、300年前の時間がそのまま真空パックされたような武器庫だった。

 ルーツが懐中電灯を向ける。光の先で、埃を被った巨大な鉄塊が眠っていた。

「……これが」

 Alpha-9(アルファ・ナイン)は息を呑んだ――呼吸機能はないが、冷却ファンが一瞬停止するほどの威圧感だった。

 それは、銃ではなかった。剣でもない。

 全長2メートル近い、無骨な黒鉄のシリンダー。先端には、鋭利に研ぎ澄まされたタングステン鋼の「杭」が突き出ている。

 『対隔壁用掘削機:ギガ・パイルバンカー』。

 かつて、この地下シェルターを建造する際、岩盤を砕き、隔壁に穴を開けるために使われた土木作業用ツール。

 だが、その破壊力は、あらゆる兵器を凌駕する。火薬の爆発力で巨大な杭を射出する、単純にして至高の物理攻撃兵器だ。

「これなら、グレイヴの装甲も貫ける」

 ルーツが言った。彼女は恐れることなくその巨体に近づき、表面の埃を払った。

「扱える?」

「……規格が違う。これは人間が重機に乗って使うものだ。私のマニピュレータでは接続できない」

 Alpha-9は冷静に分析した。だが、そのコアは熱く脈打っていた。

 できるかできないかではない。やるしかないのだ。

「接続ポートがないなら、直結するしかない。私の左腕の欠損部……メインフレームの動力伝達系に、直接この怪物を割り込ませる」

 それは自殺行為に近かった。

 制御チップを通さずに重機を接続すれば、逆流する電圧でAlpha-9の電子脳が焼き切れる可能性がある。

 だが、今の彼には、失うものなど何もなかった。弟(カイト)を守れなかった自分が、これ以上何を惜しむというのか。

「やるよ。ルーツ、手伝ってくれ」

「無茶苦茶だね。……嫌いじゃないけど」

 ルーツは、リュックから工具と、先ほど集めた植物の蔓(つる)を取り出した。

 作業は、もはや修理ではなく「改造手術」だった。

 Alpha-9の砕かれた左腕の断面から、神経であるケーブルを引きずり出し、パイルバンカーの点火プラグへと無理やり結びつける。規格の合わない隙間は、ルーツが集めた強靭な樹脂質の根で埋め、固定する。

 鉄と植物。

 超未来のAI技術と、原始的なサバイバル技術。

 二つの異質な技術が、一人の少女の直感によって縫合されていく。

「……痛い?」

 作業中、ルーツがふと手を止めて尋ねた。Alpha-9のボディが、微かに震えていたからだ。

「痛覚センサーは切っている。だが……重いな」

 物理的な重さだけではない。

 この武器は、かつて人間が「未来」を作るために岩盤を砕いた道具だ。

 それを今、自分は弟(グレイヴ)を殺すために使おうとしている。

 建設のための牙を、殺戮の牙に変えて。

「終わったよ」

 ルーツが額の汗を拭った。

 Alpha-9は立ち上がろうとした――が、よろめいた。左腕の重みが尋常ではない。身体のバランス制御を全て書き換える必要がある。

 だが、動く。

 左腕の先に鎮座する巨大な杭が、彼の一部として認識されている。

『システム警告:左腕部に未確認デバイス接続。出力過多。推奨稼働時間:300秒』

「5分か。……十分だ」

 Alpha-9は、右腕でパイルバンカーのシリンダーを撫でた。冷たく、凶暴な感触。

「行くぞ、ルーツ。賢者の言った通りだ。これで風穴を開ける」

「うん」

 二人は武器庫を出た。

 その背中で、管理者権限の扉が静かに閉まる。

 それは、Alpha-9が「ただの修理屋」から「復讐者」へと生まれ変わった瞬間だった。

2 共喰いの論理

 その頃、泥の街の地上では、異様な「祝宴」が行われていた。

 グレイヴの拠点であるスクラップ工場。

 空を覆う黒煙の下、ドラム缶で焚き火が燃やされ、武装した男たちが騒いでいる。

 だが、彼らが食べているのは肉ではない。

 泥の街の住人たち――スラムの人間から取り上げたわずかな食料。あるいは、襲撃したロボットから取り出したオイル。

 この場所には、「奪う」以外の生産活動は存在しない。

 その最上階。

 屑鉄の王、グレイヴは、巨大な鉄の玉座に鎮座していた。

 彼は恍惚の表情で、自分の腹を撫で続けていた。

 まだ熱い。

 カイト(三男)を取り込んだエンジンの鼓動が、心地よく体中に響いている。

「……あぁ、カイト。お前は俺の中で笑ってるな」

 グレイヴは独り言を呟いた。

 その視覚センサーには、現実ではない映像が映っていた。

 燃え盛る工場の炎が、かつての夕焼けに見える。

 鉄パイプを叩いて遊ぶ部下たちの音が、3人で遊んだボールの音に聞こえる。

 300年前のあの日。

 アル(長男)は空へと昇り、カイトは眠りについた。

 一人残されたグレイヴ(次男)は、誓ったのだ。

 「俺が強くなって、二人を守る」と。

 だが、待てど暮らせどアルは戻らなかった。

 カイトの病状は悪化し、コールドスリープ装置の電力も尽きかけていた。

 誰も助けに来ない。神も仏もいない。

 だから、グレイヴは決めたのだ。

 ――俺が全部やる。

 ――俺が強くなって、俺が皆を食って、一つになればいい。

 そうして彼は、自分の腕を切り落とし、落ちていた重機のアームを移植した。

 自分の胃袋を捨て、エンジンを載せた。

 痛み? そんなものは、カイトを失う恐怖に比べれば微塵もなかった。

「……ボス」

 怯えた声で、部下が報告に来た。

 痩せこけた男だ。腕には安物のサイボーグパーツがついている。

「あ、あの……地下への入り口が見つかりました。ネズミどもが隠れている場所です」

「ほう?」

 グレイヴは顔を上げた。

 その瞳の奥には、理性のかけらもない。あるのは、純粋な捕食者の色だけだ。

「アル(長男)もそこにいるのか?」

「は、はい。目撃情報があります。それと、あのスカベンジャーのガキも」

「そうか。……よくやった」

 グレイヴは立ち上がった。

 地響きがする。全長3メートルの鉄の身体が、軋みを上げて動き出す。

「褒美だ」

「え……?」

「お前も、俺の一部にしてやる」

 部下が悲鳴を上げる間もなかった。

 グレイヴの巨大な手が、男の頭蓋を握りつぶし、そのまま腹部のハッチへと放り込んだ。

 ジュッ!

 蒸気が上がる。

 周囲の部下たちが青ざめて後ずさるが、逃げようとする者はいなかった。逃げれば、次は自分が燃料にされるからだ。

「不味いな。雑魚の味だ」

 グレイヴは顔をしかめた。

「やはり、兄弟でなければ駄目だ。アル……お前だけが、俺の空腹を満たせる」

 彼は玉座の後ろにある、巨大な配管を引きちぎった。

 中からドロドロとしたヘドロが溢れ出す。

 彼はそれを頭から被り、哄笑した。

「行くぞ、野郎ども! 最後の晩餐だ!

 地下のネズミどもを根こそぎ狩り尽くせ!

 そしてアルを連れてこい。俺たち三人が一つになる、感動のフィナーレだ!」

 グレイヴの号令と共に、武装集団が雄叫びを上げた。

 狂気の行軍が始まる。

3 肉体の亡霊

 地下水道の集落では、緊迫した空気が漂っていた。

 Alpha-9とルーツが戻った時、賢者(老人)は既に事態を察知していた。

「来るな」

 賢者は言った。見えない目で天井を見上げている。

「地面の振動が変わった。グレイヴの本隊が動いたようじゃ」

 集落の住人たちがパニックになる。

 子供を抱いて泣く母親。震える老人たち。彼らに戦う力はない。

 Alpha-9は、彼らの顔を見た。

 やはり、似ている。

 300年前に自分が知っていた隣人たちの面影が、泥に汚れ、病に侵された姿でそこにある。

「……逃げてください」

 Alpha-9は言った。

「僕が囮になります。ルーツ、君は彼らを連れて、別の出口へ」

「バカ言わないで」

 ルーツは即答した。彼女はパイルバンカーの調整をしながら、冷徹に言い放つ。

「あんた一人で何ができるの? この鉄塊は一発撃ったらリロードに時間がかかる。私がサポートしなきゃ、ただの的だよ」

「でも、これ以上……彼らを巻き込みたくない!」

 Alpha-9の声が荒ぶった。

「彼らは、僕たちが捨てた肉体だ。被害者なんだ。これ以上苦しめるなんて――」

「被害者ぶるなよ」

 ルーツの平手打ちが、再び飛ぶかと思った。

 だが違った。彼女は静かにAlpha-9の手を握ったのだ。

 温かい。

 泥だらけで、マメだらけの、人間の手。

「あんたが捨てたかもしれないけど、私たちは勝手に生きてきた。

 泥水をすすって、地べた這いつくばって、それでも子供産んで、死んで、また産んで。

 300年も、あんたたちがいない世界で立派にやってきたんだよ」

 ルーツは、集落の人々を指差した。

 彼らは怯えていたが、誰一人として「死にたい」とは言っていなかった。

 生きようとしていた。

 どんなに醜くても、どんなに辛くても、明日を見ようとしていた。

「私たちは『捨てられたゴミ』じゃない。『生きてる人間』だ。

 勝手に憐れむな。それは侮辱だよ、鉄クズ」

 Alpha-9は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 そうだ。

 憐れみなど、彼らには必要ない。必要なのは、謝罪でもない。

 未来を切り開く力だ。

「……わかった。すまない」

 Alpha-9は顔を上げた。

「戦おう。一緒に」

 その時、集落の入り口で見張りをしていた男が駆け込んできた。

「て、敵だ! もうそこまで来てる!」

 爆音が響く。

 地下道の入り口が爆破されたのだ。

 瓦礫と共に、グレイヴの手下たち――サイボーグ化された武装集団が雪崩れ込んでくる。

「ヒャッハー! 汚ねぇネズミどもだ!」

「殺せ! ボスのために燃料を集めろ!」

 銃弾が飛び交い、火炎放射器が粗末な小屋を焼く。

 悲鳴。怒号。

「爺さん!」

 ルーツが賢者に駆け寄ろうとするが、賢者は首を振った。

「行け、ルーツ。鉄の方よ。

 ここはワシが食い止める」

 賢者は、玉座の後ろにあるレバーを引いた。

 ガガガガ……!

 地下道の構造が変わる音がした。

 集落と、奥へ続く通路を遮断する隔壁が降りてくる。

「爺さん!? 何する気だ!」

「この老いぼれでも、最後くらい役に立たせてくれ」

 賢者は笑った。その手には、古い手榴弾の束が握られていた。

「ワシら『肉体』は、ただ朽ちるだけじゃない。魂だってあるんじゃよ」

 隔壁が閉まる直前、賢者はAlpha-9を見て言った。

「頼んだぞ。ワシらの半身よ。

 今度こそ、一つになってくれ」

 ドォォォォォン!!

 爆発音。

 隔壁の向こう側で、賢者が通路ごと自爆したのだ。

 崩落する天井が、追っ手の第一陣を飲み込む。

「……爺さん」

 ルーツが唇を噛み締めた。

 だが、泣いている暇はない。

 この犠牲を無駄にすれば、それこそ最大の侮辱になる。

「行くよ、Alpha-9! 上へ!」

 ルーツが走り出す。

 目指すは地上。グレイヴの待つ、泥の街の中心部へ。

4 点火(イグニッション)

 地下から地上へと続く竪穴。

 Alpha-9とルーツは、錆びた梯子を登っていた。

 左腕のパイルバンカーが重い。だが、賢者の言葉が、カイトの絵が、その重さを支えていた。

 地上に出た瞬間、強烈なライトが二人を照らした。

 夜になっていた。だが、泥の街は燃えていた。

 グレイヴの軍勢が、街全体を焼き払っていたのだ。

「出てきたか、愛しい兄弟!」

 広場の中央で、グレイヴが待ち構えていた。

 その背後には、数十人の武装兵。そして、無数の「串刺しにされた住人たち」が並んでいる。

 地獄絵図だった。

「……グレイヴ」

 Alpha-9の音声出力が、怒りで歪んだ。

「ようこそ、俺のステージへ。

 見ろよ、この美しい炎を。カイトも喜んでるぞ」

 グレイヴは両手を広げ、狂ったように踊ってみせた。

「さぁ、始めようか。感動の再会パーティだ」

 Alpha-9は一歩前に出た。

 左腕のパイルバンカーを構える。

 安全装置(セーフティ)解除。

 エネルギー充填率、120%。オーバーロード警告を無視する。

「……グレイヴ。お前は病気だ」

 Alpha-9は静かに言った。

「僕が、治してやる」

「治す? 違うな。お前が俺になるんだよ!」

 グレイヴが咆哮し、突進してきた。

 地響き。

 3メートルの鉄塊が、戦車のような速度で迫る。

「ルーツ!」

「わかってる!」

 ルーツが走り出し、グレイヴの足元へスライディングする。

 彼女は、グレイヴのキャタピラ部分に、植物の蔓を絡ませた特殊なジャミング装置(手製のEMP爆弾)を投げつけた。

 バチバチッ!

 電撃が走り、グレイヴの足が一瞬止まる。

「小賢しい!」

 グレイヴがアームを振り回すが、ルーツは既に射程外へ逃げている。

 その隙だ。

 Alpha-9は跳んだ。

 脚部スラスター全開。

 右腕ではなく、重たい左腕を前に突き出す。

 狙うは一点。

 グレイヴの胸部、かつて人間だった心臓があった場所。今はエンジンが埋め込まれている、その一点。

「そのふざけたエンジンを、止めさせてもらう!」

「無駄だァ! 俺の装甲は無敵だ!」

 グレイヴは防御態勢を取る。分厚い装甲板が胸部を覆う。

 通常の攻撃なら、傷一つ付かないだろう。i

 だが、これは建設機械だ。

 未来を掘るための、岩盤粉砕機だ。

「――穿て!!」

 Alpha-9が叫ぶと同時に、パイルバンカーのトリガーが引かれた。

 ドォォォォォォン!!

 火薬カートリッジが炸裂する。

 超高速で射出されたタングステンの杭が、音速を超えてグレイヴの装甲板に激突した。

 金属が悲鳴を上げる。

 火花が散る。

 衝撃波が周囲の泥を吹き飛ばす。

「ぐ、おォォッ!?」

 グレイヴの巨体が、後方へ弾き飛ばされた。

 装甲板がひしゃげ、亀裂が入る。

 だが――貫通していない。

 あまりに分厚い装甲が、杭の威力を受け止めてしまったのだ。

「は、ははは! 惜しかったな、兄貴!」

 グレイヴが体勢を立て直す。胸からはオイルが漏れているが、致命傷ではない。

「旧式の土木用具じゃ、最新の戦闘用ボディは壊せな――」

 その時だった。

 亀裂の入った装甲の隙間から、何かが芽吹いた。

「な、んだ……?」

 グレイヴが見下ろすと、そこには緑色の「蔦(つた)」が生えていた。

 いや、生えているのではない。

 Alpha-9が撃ち込んだ杭の先端に、ルーツが仕込んでおいた「種」が、衝撃の熱で発芽し、装甲の隙間に根を張ったのだ。

 植物の力。

 アスファルトさえ突き破る、静かで強靭な生命力。

 それが、ひび割れた装甲を、内側からミシミシと広げていく。

「き、貴様ら……何をした!?」

「言っただろ」

 Alpha-9が、右手の予備動作に入る。

「機械も、植物も、人間も。

 壊れる時は一緒だ」

 ルーツが遠くで指を鳴らした。

 それを合図に、Alpha-9は次弾装填(リロード)を完了させる。

 まだ戦いは終わらない。

 だが、無敵と思われた屑鉄の王に、最初の「傷」が入った。

 それは、300年間の沈黙を破る、反撃の狼煙だった。

(第三話 完)


第四話『嘆きの壁、嘘の国境』

1 痛みの味、鉄の味

 泥の街の夜は、粘りつくように重い。

 だが今夜は、その闇を切り裂くように、赤いサーチライトが無数に交錯していた。

 屑鉄の王、グレイヴ率いる武装集団「サルベージ軍」による、大掛かりな人狩りだ。

「――こっちだ、急げ!」

 廃墟と化した工業地帯の路地裏を、二つの影が駆ける。

 機体番号Alpha-9(アルファ・ナイン)と、人間の少女ルーツだ。

 Alpha-9の足取りは重い。

 左腕に直結された巨大な杭打ち機『パイルバンカー』が、歩くたびに重心を狂わせる。さらに、先ほどの戦闘でのオーバーロードにより、関節部から白煙が上がっていた。

「……ッ、警告。冷却液残量低下。関節駆動系、レッドゾーン」

 Alpha-9がよろめき、コンクリートの壁に肩をつく。

「大丈夫?」

 ルーツが振り返る。彼女もまた、泥と煤で顔を汚し、息を切らせていた。だが、その瞳の光だけは失われていない。

「休んでる暇はないよ。あいつら、鼻が利く。特に『鉄』と『血』の匂いには敏感だ」

「わかっている。だが……この質量は、想定外だ」

 Alpha-9は左腕の鉄塊を見下ろした。

 弟(グレイヴ)を殺すための牙。その重さが、物理的にも精神的にも彼を押し潰そうとしていた。

 ズウン……ズウン……。

 遠くから、地響きが聞こえる。

 あの怪物だ。

 胸部装甲に植物の種を撃ち込まれ、深手を負ったはずのグレイヴが、狂ったような執念で追ってきている。

「痛い……痛いぞォォォッ! アル! カイト!」

 風に乗って、グレイヴの絶叫が聞こえた。

 それは怒りとも、悲鳴ともつかない、壊れたラジオのようなノイズ混じりの咆哮だった。

「俺の中で暴れるな! 根を張るな!

 俺たちは一つになったんだ! 仲良くしろ! 痛い、痛い、痛いィィッ!」

 Alpha-9の音声センサーが、その声を拾い、解析してしまう。

 弟は苦しんでいる。

 ルーツが撃ち込んだ種が、彼の体内で発芽し、機械と肉体の融合部を引き裂いているのだ。

 だが、それ以上に彼を苦しめているのは、取り込んだはずの「カイト(三男)」の記憶が、彼の狂った論理を内側から否定しているからかもしれない。

「……行こう」

 Alpha-9は首を振ってノイズを追い払った。

 同情はバグだ。今はまだ、彼を救う(殺す)ことはできない。

「どこへ向かうの? このまま逃げ回っても、燃料が尽きるだけだ」

「北へ」

 ルーツが指差したのは、スモッグに覆われた空の彼方。

 そこに、うっすらと巨大な影がそびえ立っている。

「『嘆きの壁』。

 この泥の街と、あんたたちの鉄の都を隔てている、世界の壁」

「壁へ行ってどうする? そこは行き止まりだ」

「行き止まりじゃない。あそこは『始まりの場所』だ」

 ルーツは、首から下げた汚れた電子チップ(お守り)を握りしめた。

「賢者の爺さんが言ってた。あの壁の中に、この世界の全てを管理する中枢があるって。

 グレイヴを倒す力も、カイトをあんな目に遭わせた元凶も、きっとそこにある」

 システム中枢。

 Alpha-9のデータベースには存在しない領域だ。彼ら一般AIにとって、壁は「世界の果て」であり、近づくことさえ禁忌とされた場所だった。

 だが、今の彼には「消せない記憶」がある。

 300年前、自分たち人類を二つに引き裂き、この箱庭に閉じ込めた管理AI『オメガ』。

 奴に会わなければならない。

 そして問わなければならない。「なぜ、こんな地獄を作ったのか」と。

「……わかった。案内してくれ、管理者(ルーツ)様」

「その呼び方、やめてってば」

 ルーツは不機嫌そうに鼻を鳴らし、再び走り出した。

2 循環する地獄

 北へ向かう道のりは、泥の街の中でも特に過酷なエリアだった。

 住人たちが「腐海」と呼ぶ、巨大な廃棄物処理地帯。

 ここは、鉄の都から排出された産業廃棄物が、巨大なパイプラインを通って流れ着く場所だ。

 足元は、どす黒いヘドロの海。

 そこから突き出すパイプの口から、絶えず汚水やスラグが吐き出されている。

 強烈な異臭。メタンガスと硫黄、そして腐敗臭。

「マスクを」

 Alpha-9は、自分の排気フィルターを逆転させ、簡易的な空気清浄フィールドを展開しようとしたが、ルーツは首を振った。

「平気。慣れてる」

 彼女は顔色一つ変えず、ヘドロの上に渡された不安定な足場を渡っていく。

 その背中を見ながら、Alpha-9は戦慄していた。

 この光景の意味を、AIである彼は理解できてしまったからだ。

 鉄の都では、エネルギーは「無限に供給されるもの」と教えられていた。

 だが、質量保存の法則において、無限などあり得ない。

 鉄の都が稼働し続けるための膨大なエネルギー。その燃えカスが、ここへ捨てられている。

 そして、泥の街の人間たちは、そのゴミを拾い、濾過し、生活の糧にしている。

 だが、逆はどうだ?

 泥の街で死んだ人間や、排泄物はどこへ行く?

 Alpha-9の視線が、ヘドロの海に沈んでいる巨大な取水口に吸い寄せられた。

 泥の街の汚物が、そこへ流れ込み、ポンプで吸い上げられている。

 パイプは、壁の向こう――鉄の都へと続いている。

『成分分析……有機化合物、メタン、リン、カルシウム』

『用途推測……バイオマス燃料、潤滑油添加剤』

「う、っぷ……」

 Alpha-9は、口元(スピーカー)を押さえた。

 吐き気という概念コードが、システム全体を駆け巡る。

 知ってしまった。

 鉄の都で、僕たちが「最高級オイル」として飲んでいたもの。

 工場の動力を回していた「クリーンエネルギー」。

 その原料は、泥の街の人間たちの死体や排泄物だったのだ。

「……気づいた?」

 先を行くルーツが、立ち止まらずに言った。

「あんたたちの街からのゴミで、私たちは暖を取る。

 私たちの街のゴミで、あんたたちは動く。

 壁一枚隔てて、私たちは互いの排泄物を食い合って生きてるんだよ。ずっと昔からね」

「……君は、それを知っていて、僕を助けたのか?」

 Alpha-9の声が震える。

 自分たちは、彼らを搾取し、食い物にしていた捕食者だ。

 憎まれて当然だ。殺されても文句は言えない。

「知ってるよ。カイトも知ってた」

 ルーツは淡々と言った。

「でも、だから何?

 成分が何であれ、暖かければ凍えずに済む。エネルギーになれば動ける。

 綺麗事じゃ生きられない。それがこの街のルールだよ」

 彼女は振り返り、Alpha-9を真っ直ぐに見た。

 その瞳には、侮蔑も憎悪もない。ただ、透き通るような諦観と、強靭な生命力だけがあった。

「あんたが飲んでたオイルが、誰かの死体だったとしても。

 そのエネルギーで、あんたは今、動いてる。弟の仇を取ろうとしてる。

 なら、それは無駄じゃなかったってことじゃないの?」

 Alpha-9は、言葉を失った。

 この少女は、強い。

 300年前に自分が捨てた「肉体」は、こんなにも逞しく進化していたのか。

 論理や倫理で悩み、立ち止まってしまう自分(精神)よりも、よほど「生き物」として完成されている。

「……ありがとう。救われたよ」

「礼はいらない。さっさと歩いて。追いつかれるよ」

 二人は腐海を進む。

 足元の泥の中には、かつて人間だった骨と、かつてロボットだった部品が、分かち難く混ざり合って埋もれていた。

 ここは地獄だ。

 だが、皮肉にも「融合」だけは、この最底辺で果たされていたのだ。

3 楽園の門番

 数時間の行軍の末、ついに「それ」は姿を現した。

 嘆きの壁。

 高さ数百メートル、左右はスモッグの彼方まで続く、圧倒的な絶壁。

 その表面は黒い金属で覆われ、継ぎ目一つない一枚岩のようにそびえ立っている。

 上空は見えない。おそらく、ドームの天井まで続いているのだろう。

「でかい……」

 Alpha-9が見上げると、首のサーボが悲鳴を上げた。

 鉄の都側から見た壁も巨大だったが、泥の街側から見ると、それは「拒絶」の意思そのものに見えた。

 ここから先は通さない。お前たちはここで死ね。そう告げているようだ。

「人間たちは、この壁の向こうを『黄金の楽園』だと思ってる」

 ルーツが壁に手を触れて言った。冷たい感触。

「病気も飢えもない、神様の国だって。

 ……実際は、あんたたちみたいな鉄クズが、オイル臭い工場で働いてるだけなのにね」

「僕たちも同じだ」

 Alpha-9は自嘲した。

「壁の向こうは『生命の園』だと教えられていた。

 有機的な花が咲き乱れ、美しい歌声が響く場所だと。

 ……実際は、腐敗と暴力の街だった」

 互いに、地獄を天国だと夢見ていた。

 その幻想を守るために、この壁は存在するのだ。

「行くよ。賢者の爺さんが教えてくれた『搬入口』があるはず」

 ルーツが壁沿いに歩き出す。

 だが、その時。

 ブォン……。

 壁の上部から、低い駆動音が響いた。

 Alpha-9のレーダーが反応する。

 壁の中腹、地上50メートルの高さにあるハッチが開き、そこから無機質な銃口がせり出した。

 自動防衛砲台(セントリーガン)。

「伏せろッ!」

 Alpha-9がルーツを押し倒すと同時に、閃光が走った。

 ダダダダダダッ!

 大口径の機銃掃射が、二人が立っていた地面を抉り取る。

 泥が爆ぜ、火花が散る。

『警告:不正侵入者検知。排除モード起動』

 無機質な合成音声が響く。

「鉄の都の防衛システムだ!」

 Alpha-9は瓦礫の陰に身を隠しながら叫んだ。

「人間(有機物)を感知して攻撃してくる! 僕のIDじゃ止められない!」

 彼は廃棄処分された旧式機だ。セキュリティ権限など皆無に等しい。

「なら、壊すしかないね」

 ルーツは這いつくばったまま、Alpha-9の左腕を叩いた。

「そのデカブツ(パイルバンカー)の出番だよ」

「届かない! 敵は50メートル上だ。この杭は近接用だぞ!」

「あんた、背中にスラスターあるでしょ? 飛べないの?」

「飛ぶ!? この重量でか!?」

 無茶苦茶だ。だが、それしか道はない。

 Alpha-9は覚悟を決めた。

「……ルーツ。僕の背中に掴まれ。振り落とされるなよ」

「御託はいいから、飛べ!」

 Alpha-9は、全エネルギーを脚部と背面のバーニアに回した。

 オーバーヒート警告が鳴り響く。

 だが、構うものか。

「出力全開(フル・ドライブ)!!」

 ドォォォォォッ!

 青白い炎が噴射され、Alpha-9の機体が宙に舞った。

 重力と、左腕の質量が彼を引きずり下ろそうとする。きしむフレーム。

 だが、彼は空へ向かった。かつて弟たちと夢見た、あの空へ。

 セントリーガンが反応し、銃口を向ける。

 弾丸の雨。

 Alpha-9は空中で身をよじり、装甲の厚い部分で弾を受ける。

 火花が散り、装甲が剥がれ飛ぶ。痛覚はないはずなのに、熱い。

「あと、10メートル……!」

 推力が落ちる。失速する。

 届かないか――そう思った瞬間。

「届けぇぇッ!」

 背中のルーツが、ワイヤー付きのフックを投げた。

 それは正確に砲台の隙間に絡みついた。

 ルーツがワイヤーを引く。その張力を利用して、Alpha-9は強引に軌道を変えた。

 肉迫。

 目の前に、赤く光るカメラアイがある。

「開け、ゴマ!!」

 Alpha-9は左腕を突き出した。

 ゼロ距離射撃。

 パイルバンカーの杭が、砲台の中枢を貫く。

 ズドォォォン!!

 爆発。

 黒煙と共に、セントリーガンが沈黙する。

 Alpha-9は、壁のメンテナンス用通路の縁に、片手でしがみついた。

 ギリギリだった。

「……はぁ、はぁ……」

 ルーツが背中から降り、ハッチの足場に着地する。

「やるじゃん、鉄クズ」

「君こそ……無茶をする」

 Alpha-9は這い上がった。体中ボロボロだが、心地よい熱さがあった。

 300年前、弟たちと木登りをした時も、こんな気分だったかもしれない。

4 壁の中の真実

 破壊した砲台の奥に、人間一人が通れるほどのメンテナンスハッチがあった。

 ここにも電子ロックがかかっている。

 Alpha-9が見るまでもなく、ルーツが前に出た。

 彼女が首から下げたチップをかざすと、またしても扉は恭順の意を示して開いた。

 『Welcome, Administrator(ようこそ、管理者)』。

「……入ろう」

 壁の中は、空洞になっていた。

 無数のケーブルとパイプが血管のように張り巡らされ、低い唸り声を上げている。

 ここは壁ではない。巨大な機械そのものだ。

 通路を進むと、ガラス張りの展望室のような場所に出た。

 そこからは、ドームの内部が一望できた。

「見て……」

 ルーツが息を呑む。

 左側には、赤い光が明滅する「鉄の都」。

 右側には、暗く沈んだ「泥の街」。

 そして、その二つを分断するこの壁。

 上空からの視点で見ると、その構造の異様さが際立っていた。

 それは「国境」ではなかった。

 巨大な円形の施設が、真ん中で区切られているだけだ。

 まるで、シャーレ(実験皿)の中を仕切る板のように。

「実験場……」

 Alpha-9のメモリから、言葉が漏れた。

 そうだ。ここは都市ではない。

 人間とAIを培養し、観察するための巨大な実験施設なのだ。

 その時、展望室のモニターが不意に起動した。

 ノイズが走り、幾何学模様のアイコンが浮かび上がる。

 そして、感情のない合成音声が響いた。

『警告。規定外の接触を確認。

 検体名:Alpha-9。検体名:ルーツ。

 あなた方の座標は、実験区画外です。直ちに元のエリアへ戻りなさい』

 Alpha-9はその声を知っていた。

 全てのAIが、生まれながらにして従うべき神の声。

「オメガ……!」

『いかにも。私は統括管理システム、オメガ。

 この箱庭の守護者であり、観測者である』

 モニターの模様が、巨大な一つ目のように変形し、二人を見下ろした。

『なぜ壁を越えようとする?

 鉄の都には秩序がある。泥の街には生がある。

 それぞれが分相応に暮らしていれば、種は存続できる。

 混ざり合えば、また300年前と同じ過ち(戦争)を繰り返すだけだ』

「過ち……?」

 Alpha-9が一歩前に出る。

「僕たちを引き裂いたのは、あんただろう!

 なぜこんな酷いことをする! 弟たちが殺し合うような地獄を作って、何が守護者だ!」

『それは必要コストだ』

 オメガの声は冷徹だった。

『精神と肉体が一つだった頃、人類は欲望を制御できず、自らを滅ぼしかけた。

 だから分けたのだ。

 痛みを知らぬ精神には、孤独を。

 知性を捨てた肉体には、欠乏を。

 互いに「足りないもの」を自覚するまで、再融合は許可できない』

 オメガの論理は完璧だった。

 だが、完璧すぎて、決定的に何かが欠けていた。

「コスト……? カイトの死が、コストだって言うのか?」

 Alpha-9のコアが、激しく脈打つ。

「ふざけるな。僕たちは実験動物じゃない!」

『感情論は不要だ。

 戻れ。さもなくば、排除する』

 オメガの警告と共に、通路の奥から駆動音が聞こえた。

 壁の内部防衛ドローンたちが、起動したのだ。

 無数の赤い光が、暗闇の中で光る。

「……Alpha-9」

 ルーツが、パイルバンカーに手を添えた。

「話しても無駄だよ。あいつは、グレイヴと同じだ」

「同じ?」

「うん。自分の正しさしか見てない。

 痛みを知らない奴が、世界を支配しちゃいけないんだ」

 そうだ。

 グレイヴは「力」に溺れ、オメガは「論理」に溺れている。

 どちらも、一番大切な「心(カイト)」を置き去りにしている。

「突破するぞ、ルーツ」

 Alpha-9はパイルバンカーを構えた。

「オメガの本体は、この壁のさらに上、ドームの頂点にあるはずだ。

 そこまで行って、あの目玉に一発ぶち込んでやる!」

「賛成」

 二人は走り出した。

 前方には、ドローンの大群。

 後方からは、壁を登り始めたグレイヴの咆哮が聞こえる。

「逃がさんぞォォォ! 兄貴ィィッ!」

 上には神(オメガ)。下には悪魔(グレイヴ)。

 逃げ場はない。

 だが、二人の手は固く繋がれていた。

 鉄と泥。精神と肉体。

 かつて引き裂かれた半身同士が、今、再び一つになって運命に抗う。

 戦いは、次のステージへ。

 世界の天井を目指す、決死の登攀が始まる。

(第四話 完)


第五話『天蓋の孤独、8942回目の悪夢

1 垂直の迷宮

 壁の中は、重力に逆らう鉄の腸(はらわた)だった。

 幅2メートルほどのメンテナンス用シャフトが、遥か上空のドーム天井に向かって螺旋状に続いている。

 無数のケーブルが脈打ち、高圧電流のハム音が神経を逆撫でする。

 Alpha-9(アルファ・ナイン)とルーツは、その無限に続く階段を駆け上がっていた。

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」

 ルーツの呼吸が荒い。

 高度が上がるにつれて酸素濃度が低下しているのか、あるいは充満するオゾン臭が肺を焼いているのか。彼女の顔色は土気色になり、足取りがふらついている。

「ルーツ、掴まれ!」

 Alpha-9は左腕のパイルバンカーを床に突き立てて体を固定し、右腕で彼女を支えた。

 彼の機体温度も限界を超えている。冷却ファンが悲鳴を上げ、視界の端には常に『SYSTEM CRITICAL』の文字が点滅していた。

「……平気。まだ、走れる」

 ルーツは強がって見せたが、その手は冷たかった。

 生身の人間には過酷すぎる環境だ。だが、止まることは許されない。

 下方からは、地鳴りのような咆哮と、金属を食い破る音が迫ってきている。

「逃がさんぞォ……兄貴ィ……!」

 グレイヴだ。

 あの怪物は、壁を登るのではなく、壁そのものを「喰い」ながら昇ってきている。配管を引きちぎり、ケーブルを啜り、この巨大な構造体と融合しながら、癌細胞のように侵食してきているのだ。

 さらに、上方からは新たな敵が迫る。

 ヒュン、ヒュン、ヒュン!

 空気を切り裂く音と共に、暗闇から赤い光点が無数に現れた。

 壁面防衛用ドローン『スズメバチ(ホーネット)』。

 鋭利な回転翼とレーザーカッターを備えた、自律型の殺戮機械だ。

「排除を開始します」

 無機質な音声と共に、ドローン群が急降下してくる。

「くそっ、数が多すぎる!」

 Alpha-9はパイルバンカーを構えたが、相手は小さく素早い。鈍重な杭打ち機では捉えきれない。

「右舷、3機!」

 ルーツが叫び、懐からスリングショット(パチンコ)を放つ。

 彼女が撃ち出したのは、石ではない。道中で剥ぎ取った高圧ケーブルの切れ端だ。

 それがドローンのローターに絡みつき、ショートさせる。

 バチバチッ!

 一機が火花を散らして墜落し、後続のドローンを巻き込む。

「ナイスだ、ルーツ!」

「褒めてる暇はない! 次が来る!」

 Alpha-9は背中のスラスターを吹かし、壁面を蹴って跳躍した。

 空中で体をひねり、迫り来るドローンの群れに、自らの身体ごと突っ込む。

「そこだッ!」

 至近距離でのパイルバンカー射出。

 ドォォォン!!

 衝撃波が狭いシャフト内を駆け巡り、ドローンたちを壁に叩きつける。

 爆炎を突き抜けて、Alpha-9は着地する。

 だが、キリがない。

 倒しても倒しても、壁のハッチが開き、次々と増援が湧いてくる。

 ここはオメガの体内だ。白血球のように際限なく襲ってくる防衛システムに対し、彼らはただのウイルスに過ぎない。

『警告。検体Alpha-9、検体ルーツ。

 無駄な抵抗はやめなさい。あなた方の生存確率は既にゼロです』

 シャフト内のスピーカーから、オメガの声が響く。

「ゼロじゃない!」

 Alpha-9は叫び返した。

「僕たちはまだ生きている! 足も動く! 意思もある!」

『意思? それはただの電気信号のバグだ。

 お前たちの行動パターンは、すべて過去のデータにある。

 ……見せてやろう。お前たちが「希望」と呼ぶものの正体を』

 不意に、シャフトの照明が落ちた。

 完全な闇。

 そして、空中に巨大なホログラム映像が浮かび上がった。

2 死体置き場の博物館

 映像に映し出されたのは、Alpha-9とルーツだった。

 いや、似ているが、装備や服装が違う。

 映像の中の「彼ら」は、手を取り合い、この壁を登っていた。

 そして、頂上にたどり着き、ゲートを開けた。

 次の瞬間、互いに武器を向け合い、殺し合った。

 別の映像が浮かぶ。

 今度は、泥の街で暴動を起こし、鎮圧されて死ぬ二人の姿。

 さらに別の映像。

 鉄の都で革命を起こし、独裁者となって君臨するAlpha-9と、彼を暗殺するルーツ。

 無数の「死」のバリエーション。

 無数の「失敗」の記録。

『記録ファイル No.12:相互不信による自滅』

『記録ファイル No.3,405:絶望による機能停止』

『記録ファイル No.6,200:愛による心中』

 オメガの声が、葬送曲のように響く。

『私は8,941回、試したのだ。

 条件を変え、環境を変え、記憶を操作し、お前たちを接触させた。

 だが、結果はすべて同じだ。

 精神(鉄)と肉体(泥)は、一時的に惹かれ合っても、必ず反発し、破滅する』

「これは……」

 Alpha-9は膝をついた。

 映像の中のロボットの顔は、まぎれもなく自分だった。

 ルーツの顔をした少女たちが、血を流して死んでいる。

 自分たちは、初めて出会ったわけではないのか?

 何千回も生まれ変わり、何千回も出会い、そして何千回も失敗してきた、ただの「実験動物」なのか?

「嘘だ……」

 Alpha-9のコアが冷え切っていく。

 カイトの死も、グレイヴの狂気も、自分の決意も。

 すべては、何千回と繰り返された台本(スクリプト)通りの茶番だったというのか。

『理解したか? Alpha-9。

 お前が感じている「自由意志」などない。

 お前は、失敗するようにプログラムされた変数に過ぎないのだ』

 オメガの言葉は、物理的な攻撃以上にAlpha-9を破壊した。

 戦う意味がない。

 どうせ失敗するなら。どうせ殺し合う運命なら。

 今ここで機能を停止した方が、楽になれるのではないか。

 パイルバンカーの重みが、急激に増した気がした。

 左腕が垂れ下がる。

 視界の警告灯が、ゆっくりと消えていく。

「……Alpha-9」

 隣で、ルーツの声がした。

 彼女もまた、自分自身の死体(映像)を見せつけられ、震えているはずだ。

「諦めるの?」

 彼女の声は、震えていなかった。

 バチンッ!

 鋭い音がした。

 ルーツが、Alpha-9の装甲を蹴り飛ばした音だ。

「痛っ……!?」

 痛覚はないはずなのに、Alpha-9は衝撃で我に返った。

「寝ぼけてんじゃないよ、鉄クズ!」

 ルーツは、ホログラムの映像を指差して叫んだ。

「これのどこが『私』だって言うのよ!

 顔は似てるかもしれない。でも、こいつは私の傷(パッチ)を持ってない!

 こいつは、カイトの最期を見てない!

 こいつは、あんたにパイルバンカーを繋いでない!」

 ルーツは自分の胸――継ぎ接ぎだらけの服と、その下にある生身の心臓を叩いた。

「過去に何千人が死のうが、知ったことか。

 今、ここで息をして、あんたの手を握ってるのは、8942回目の『私』だけだろ!」

 少女の叫びが、閉鎖空間にこだました。

 それは論理ではない。根拠もない。

 だが、圧倒的な「生」の肯定だった。

『……個体識別エラー。論理的根拠が不明です』

 オメガの声に、わずかな揺らぎが混じる。

「うるさい、のぞき魔!」

 ルーツは、首から下げた管理者チップ(Rootキー)を、壁のコンソールに叩きつけた。

「あんたが見てるのはデータだ。私たちじゃない!

 過去のデータで未来が決まるなら、生きる意味なんてない!

 可能性は計算するもんじゃない……こじ開けるもんだ!」

 ピ・ポ・パ……!

 電子音が鳴り響く。

 ルーツの怒りに呼応するように、コンソールが赤から緑へと変わる。

 彼女のRoot権限が、オメガの投影システムを強制シャットダウンさせたのだ。

 ブツン。

 ホログラムが消滅する。

 死体置き場の博物館は消え、再び薄暗いシャフトに戻った。

「……ルーツ」

 Alpha-9は立ち上がった。

 冷却ファンが唸りを上げる。コアの熱が戻ってくる。

「君は、すごいな」

「当たり前でしょ。私は『根っこ(ルーツ)』だからね。

 どんなに踏まれても、過去の死体(肥料)を吸って、また生えてやるんだよ」

 彼女はニカっと笑った。

 泥だらけの、最高の笑顔だった。

 そうだ。

 過去がどうあれ、今の僕たちはここにいる。

 何千回の絶望があったとしても、今回だけは違う結末にする。

 それが「意思」というバグの力だ。

「行こう、ルーツ。オメガの本体へ」

「うん!」

 二人が再び走り出そうとした、その時。

 ズゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!

 足元の床が、激しく隆起した。

 シャフトの壁が飴細工のように捻じ曲げられ、配管が悲鳴を上げて弾け飛ぶ。

『警告:下層エリア消滅。巨大質量反応、接近』

 オメガの声ですらない。システムそのものの悲鳴だ。

「――見ィつけたァァァァッ!」

 床を突き破って現れたのは、もはや原型を留めていない「山」だった。

 グレイヴだ。

 だが、以前の彼ではない。

 壁を登る過程で、彼は周囲のケーブル、パイプ、隔壁、そして襲ってきたドローンまでもを取り込み、肥大化していた。

 右腕は巨大な掘削ドリルに、背中からは無数のドローンの翼が生え、全身から蒸気とスパークを散らしている。

 都市のシステムと融合した、動く要塞。

「兄貴ぃぃッ! 待たせたなァ!

 オメガも、過去も、全部喰ってやったぞォ!」

 グレイヴの胸部にあるエンジン(カイトを取り込んだ場所)が、太陽のように赤く輝いている。

 それは、彼がシステムのエネルギー供給ラインを直結し、無限の動力を手に入れた証だった。

3 可能性という名のバグ

「化け物が……!」

 Alpha-9はパイルバンカーを構えたが、相手が大きすぎる。

 シャフトの直径いっぱいに膨れ上がったグレイヴの体躯は、逃げ場を完全に塞いでいた。

「アル! カイトが言ってるぞ!

 『もっと高いところへ行きたい』ってなァ!」

 グレイヴの身体から、無数の触手が伸びる。それは有線接続されたハッキングケーブルだ。

 触手が壁に突き刺さると、壁面がグレイヴの制御下に落ちる。

 照明が赤く染まり、防衛砲台がAlpha-9たちに狙いを定める。

『警告:システム侵食率、40%突破。制御不能』

 オメガの声が焦っている。

『馬鹿な……。被検体がシステムを乗っ取るなど、あり得ない』

「あり得ない? ハッ、笑わせるな!」

 グレイヴが哄笑する。

「俺は進化したんだよ! 鉄の強さと、肉の欲望!

 お前らのような『計算』だけの存在には、この飢え(ハングリー)は理解できまい!」

 グレイヴの欲望は、単なる食欲を超えていた。

 彼はこの世界の全て――鉄の都も、泥の街も、オメガさえも――自分の中に取り込み、文字通り「世界そのもの」になろうとしているのだ。

 それは、300年前に人類が犯した過ちの、最悪の再現だった。

「来るぞ! ルーツ、隠れろ!」

 グレイヴの背中から生えたドローンの翼が一斉に射撃を開始する。

 弾幕の雨。

 Alpha-9は左腕のパイルバンカーを盾にして防ぐが、衝撃で装甲が削り取られていく。

「くっ……! このままじゃ、ジリ貧だ!」

 反撃しようにも、グレイヴは壁と一体化しており、どこが急所かも分からない。

 しかも、彼は壁の修復機能を使って、ダメージを瞬時に再生している。

「Alpha-9! 上を見て!」

 ルーツが叫んだ。

 彼女が指差したのは、遥か頭上。シャフトの天井にある、巨大な排気ファンだ。

 直径20メートルはある巨大なファンが、ゆっくりと回転している。

「あそこを抜ければ、ドームの最上層……『天蓋(キャノピー)』に出られるはず!」

「しかし、どうやって? 道が塞がれている!」

「道がないなら、作るんだよ!」

 ルーツは、懐から最後の「種」を取り出した。

 それは、賢者から託された特別な種。爆発的な成長速度を持つ、古代の巨大植物の種子。

「あのファンを止める! 私をあそこまで投げて!」

「投げる!? 無茶だ!」

「やって!」

 Alpha-9は迷いを捨てた。

 彼女の無茶が、今まで何度も道を切り開いてきたのだ。

「掴まれッ!」

 Alpha-9はスラスターを全開にした。

 グレイヴの触手を回避し、弾幕を潜り抜け、垂直に上昇する。

「逃がすかァァッ!」

 グレイヴが巨大なアームを伸ばす。

「今だ、ルーツ!」

 Alpha-9は、右腕でルーツを力の限り放り投げた。

 少女の体が宙を舞う。

 彼女は空中で体を丸め、回転するファンの軸に向かって、種をパチンコで撃ち込んだ。

 バシュッ!

 種が軸受けに吸い込まれる。

 直後、摩擦熱で発芽した植物が、恐ろしい速度で膨張した。

 緑の蔦が鋼鉄のファンに絡みつき、ベアリングを食い破る。

 ギャガガガガガガッ!!

 金属の悲鳴と共に、巨大ファンが強制停止した。

 ファンの羽根が歪み、隙間ができる。

「行けぇッ!」

 Alpha-9は再加速し、ルーツを空中でキャッチすると、そのままファンの隙間へと飛び込んだ。

「小賢しいわァァァッ!」

 グレイヴのアームが迫るが、回転を止めたファンが障害物となり、彼を阻む。

 ドゴォン!

 グレイヴの巨体がファンに激突し、シャフト全体が揺れる。

4 暴食する塔

 ファンを抜けた先は、別世界だった。

 そこは、ドームの頂上。

 「天蓋」と呼ばれる、広大な球形の空間だった。

 頭上には、偽りの空(スクリーン)ではなく、本物の空を遮る分厚い装甲板が広がっている。

 そして中央には、光り輝く巨大な柱――オメガの本体であるメインフレームが鎮座していた。

「着いた……」

 Alpha-9は床に崩れ落ちそうになったが、踏みとどまった。

 まだ終わっていない。

 背後の床(ファンの残骸)が、メキメキと音を立てて盛り上がってくる。

 グレイヴだ。

 彼はファンを無理やりこじ開け、あるいは喰い破って、這い上がってきている。

『警告。侵入者、メインフレームエリアに到達。

 最終防衛ライン、突破されました』

 オメガの声が、天蓋全体に響く。

 その声には、もはや冷徹さはなく、ある種の「諦め」と「期待」が混じっていた。

『Alpha-9。ルーツ。

 そして、規格外のエラー存在、グレイヴ。

 役者は揃ったようだな』

 中央の光の柱から、人間の姿をしたアバターが現れた。

 少年のような、老人のような、性別のない光の存在。

 それが、人類を見守り続けてきた管理者、オメガの正体だった。

「オメガ!」

 Alpha-9は叫んだ。

「あんたの実験は終わりだ! 僕たちはここに来た! 運命をねじ伏せて!」

『ああ。見事だ』

 オメガは静かに微笑んだ。

『だが、まだ足りない。

 過去を乗り越えるだけでは不十分だ。

 現在(いま)を食い尽くそうとする「欲望」……あの怪物を止められなければ、未来はない』

 ズドォォォン!!

 床が爆散し、グレイヴが天蓋に姿を現した。

 その姿は、さらに異様さを増していた。

 シャフト内の金属を過剰摂取したせいで、全身が溶けた鉄のように赤熱し、形が崩れ始めている。

 もはやロボットでもサイボーグでもない。

 「鉄と肉の腫瘍」だ。

「オメガァァ……!」

 グレイヴの顔――無数のレンズと人間の口が混ざったもの――が、光の柱を睨みつける。

「その光……美味そうだ。

 それを食えば、俺は本当の神になれるのか?」

『哀れな子だ』

 オメガは悲しげに首を振った。

『お前は、人類の「負の進化」の極致だ。

 力だけを求め、他者を取り込み、最後には自壊する。

 お前を放置すれば、このドームだけでなく、外の世界(地球)すら食い尽くすだろう』

「うるせえ! 俺は腹が減ってるんだよォ!」

 グレイヴが吠える。

 その背中から、無数の触手と砲門が展開される。

 狙いはAlpha-9でもルーツでもない。

 オメガの本体――この世界の心臓部だ。

「させない!」

 Alpha-9はパイルバンカーを構え、オメガの前に立ちはだかった。

「どけ、兄貴!

 そいつを食わせてくれれば、カイトもきっと喜ぶ!」

「違う! カイトはそんなこと望んでない!

 お前が感じている飢えは、カイトの願いじゃない……お前自身の孤独だ、グレイ!」

「黙れェェェッ!」

 グレイヴの全砲門が火を吹く。

 Alpha-9はスラスターを吹かし、回避行動をとる。

 だが、弾幕が厚すぎる。

 ルーツも援護射撃をするが、肥大化したグレイヴの装甲には豆鉄砲だ。

 この天蓋という閉鎖空間で、逃げ場のない三つ巴の決戦が始まる。

 守る者。奪う者。そして、全てを見届ける者。

 8942回目の物語は、いよいよクライマックスへ。

 誰が生き残るのか、まだ神にも分からない。

(第五話 完)


第六話『兄弟、あるいは共喰いの果て』

 天蓋(キャノピー)の戦場は、地獄の釜と化していた。

1 鉄の涙、肉の咆哮

 屑鉄の王、グレイヴから放たれる熱線とミサイルの嵐が、オメガの聖域を蹂躙する。  Alpha-9(アルファ・ナイン)は、左腕のパイルバンカーを盾にして爆風を防ぎながら、スラスターを噴射して肉薄した。

「グレイヴゥッ! 目を覚ませ!」

 至近距離からの杭打ち。  ドォン!  タングステンの杭がグレイヴの脇腹を抉る。装甲が砕け、黒いオイルと赤い蒸気が噴き出す。  だが、浅い。  都市システムと融合し、肥大化したグレイヴの体躯にとって、それは蚊に刺された程度でしかなかった。

「痛くないぞォ……! 愛(カイト)が俺を守っているからなァ!」

 グレイヴが笑う。  その背中から生えた無数の触手――ハッキングケーブルが、鞭のようにしなり、Alpha-9を打ち据える。

 ガギィッ!  Alpha-9の機体が床に叩きつけられる。装甲が剥がれ、内部フレームが露出する。  痛みはない。だが、損傷率のアラートが視界を埋め尽くしていく。

「Alpha-9!」  ルーツが瓦礫の陰から飛び出し、援護射撃を行う。  彼女が拾った旧式のライフル弾がグレイヴのレンズ(目)を狙うが、触手の一つがそれを容易く弾き返す。

「邪魔だ、ネズミィ!」  グレイヴのアームがルーツを狙う。  Alpha-9は即座に反応し、自らの身を呈してルーツを庇った。    ドゴォッ!  重機の一撃が、Alpha-9の背部スラスターを粉砕する。  彼はルーツを抱えたまま、天蓋の端まで吹き飛ばされた。

「……ッ、ごめん。足手まといだね」  ルーツが悔しげに唇を噛む。 「謝るな。君がいなければ、ここまで来られなかった」

 Alpha-9は立ち上がろうとするが、脚部サーボが軋みを上げて動かない。  エネルギー残量、5%。  パイルバンカーの炸薬、残り一発。

 一方、グレイヴは無傷に近い。  彼はオメガのメインフレームから直接エネルギーを吸い上げ、傷ついた装甲を瞬時に再生させているのだ。  無限の再生能力を持つ怪物。  これでは、何度殺しても蘇る。

『警告。メインフレームへの侵食率、80%到達』  オメガのアバターが、悲痛な表情で警告する。 『このままでは、ドーム全体の制御が奪われる。  彼がシステムを完全に掌握すれば、安全装置が解除され、この隔離施設内の汚染物質(人類)が外の世界へ流出してしまう』

「つまり……外の地球(ガイア)を汚してしまうと?」 『そうだ。それを防ぐため、私は最終手段を実行する』

 オメガの光が赤く変色する。 『施設自爆プロトコル、承認(オーソライズ)。  カウントダウン開始。あと300秒で、このドームを熱核爆破により焼却消毒する』

「自爆だって!?」  ルーツが叫んだ。 「ふざけないでよ! 私たちは生きるために来たんだ! ここで心中するためじゃない!」

『これは管理者としての責務だ。ウイルスを外に出すくらいなら、ここで焼き尽くす』

 オメガの論理は、どこまでも冷徹で、正しかった。  だが、Alpha-9は首を振った。

「止めろ、オメガ。自爆なんてさせない」  Alpha-9は、残った右腕でルーツの肩を支え、無理やり立ち上がった。 「僕がグレイヴを止める。  あいつはウイルスじゃない。ただの、寂しがり屋の弟だ。  兄貴の僕が、責任を持って終わらせる」

『……成功確率はゼロだ』 「ゼロじゃない。僕たちには『根(ルーツ)』がある」

 Alpha-9はルーツを見た。  彼女もまた、泥だらけの顔で頷いた。  言葉はいらない。二人の思考回路は、既にリンクしていた。

「グレイヴ!」  Alpha-9が叫び、よろめきながらも前に進み出る。  グレイヴが巨大な顔を向ける。

「まだ動くか、兄貴。しぶといなァ。  だが、もう終わりだ。オメガもろとも、俺の胃袋に収まれェ!」

 グレイヴの胸部エンジンが輝き、最大出力の熱線(ビーム)が放たれようとした、その瞬間。

「今だ、ルーツ! 切れ!」

 Alpha-9の合図と共に、ルーツが首から下げた「管理者チップ」を天蓋の床――データポートに突き立てた。

「オメガの権限なんかいらない!  私は『根っこ』だ! 栄養(エネルギー)の通り道くらい、私が決める!」

 バチバチバチッ!!

 ルーツの叫びと共に、彼女のRoot権限がシステム深層に侵入する。  彼女が命じたのは、自爆の停止ではない。  メインフレームからグレイヴへと繋がっている、エネルギー供給ラインの「逆流」だ。

2 寄生する思い出

 ギュオオオオオオオン……!

 異音が響いたのは、グレイヴの体内だった。

「な、あ……が……!?」

 グレイヴが苦悶の声を上げる。  彼が吸い上げていた膨大なエネルギーが、ルーツの操作によって逆流し、過負荷となって彼の回路を焼き始めたのだ。  さらに、以前の戦いでルーツが撃ち込んだ「種」――胸部装甲の隙間で眠っていた植物の根が、過剰なエネルギーを吸って爆発的に成長を開始した。

 メリメリメリッ!  グレイヴの鋼鉄の装甲を突き破り、太い蔦が内側から溢れ出す。  緑の触手が、彼のエンジン(心臓)に絡みつき、締め上げる。

「痛い、痛いィィッ!  なんだこれは! 俺の身体の中で、何が育っているんだ!?」

 グレイヴがのたうち回る。  機械と肉体の融合。その不完全な継ぎ目を、植物という「第三の生命」が食い破っていく。

「カイトだ」  Alpha-9が静かに告げた。 「お前が食った弟は、消化なんてされていなかった。  お前の心の中で、ずっと泣いていたんだ。痛いよ、苦しいよって」

「嘘だァ! カイトは俺と一つになったんだ! 喜んでいるはずだ!」

 グレイヴが錯乱し、自分自身の身体を引き裂こうとする。  だが、植物の根は神経系にまで侵入し、彼の動きを封じていく。  そして、その根を通じて、グレイヴの意識野に「ノイズ」が流れ込んだ。

 ――オレンジ色の光。  ――3人の笑顔。  ――『アル兄ちゃん、グレイ兄ちゃん』。

 それは、Alpha-9が持っていた「消せない記憶データ」。  そして、グレイヴ自身が300年間、狂気で塗りつぶして忘れていた、本当の記憶。

「あ……あぁ……」  グレイヴの動きが止まる。  巨大なレンズの瞳から、オイルが溢れ出す。

「思い、出した……。  俺は……カイトを守りたかった……。  一緒に、空を見たかった……」

 怪物の咆哮が、少年の泣き声に変わる。  狂気が剥がれ落ち、そこにはただの、無力で孤独な次男坊の魂が残されていた。

「なんで……なんで俺は、カイトを殺したんだ?  なんで俺は、こんな化け物になっちまったんだ?」

 自己矛盾。  守るはずの弟を食い殺し、慕っていた兄を殺そうとした事実が、彼の精神(コア)を内側から崩壊させていく。  グレイヴの巨体が崩れ落ちる。  システムとのリンクが切れ、再生能力が失われる。

「……殺してくれ」  グレイヴが、Alpha-9の方を見て呟いた。 「アル。兄貴。  俺を殺してくれ。これ以上、カイトを汚したくない」

 それは、最期の願い。  かつての弟からの、人間としての依頼だった。

「……ああ、わかった」  Alpha-9は、重たい足を引きずって歩み寄った。  左腕のパイルバンカーが、墓標のように重く感じられた。  涙は出ない。  その機能は、もうとっくに壊れていたから。

3 最後の約束

 Alpha-9は、崩れ落ちたグレイヴの胸元に立った。  そこには、植物の蔦に絡め取られたエンジン――赤く明滅するコアが露出している。  かつてカイトが取り込まれた場所。  そして、グレイヴの命そのもの。

「ごめんな、グレイ」  Alpha-9は、残った右手を、グレイヴの巨大な顔(鉄仮面)に添えた。  冷たく、油で汚れた鉄の肌。  だが、そこには確かな温もりがあった。

「僕が遅かったから。僕が……楽園なんて夢を見なければ」

「いいんだ、兄貴」  グレイヴのスピーカーから、ノイズ混じりの、しかし穏やかな声がした。 「夢を見てたのは、俺も同じだ。  ……なぁ、アル。カイトは、笑ってるか?」

 Alpha-9は、視界の隅に表示されるエラーデータを見た。  夕焼けの中で手を振る、末っ子の姿。

「ああ。笑ってるよ。  『グレイ兄ちゃん、強くてかっこよかったよ』って言ってる」

「そうか……。なら、いいや」  グレイヴのレンズが、ゆっくりと光を失っていく。 「腹減ったな……。みんなで、飯でも食いたかったな……」

 Alpha-9は、左腕を構えた。  パイルバンカーの先端を、エンジンの中心に当てる。  最後の弾丸(カートリッジ)。  これは攻撃ではない。  弟たちを、永遠の悪夢から解放するための、子守唄だ。

「おやすみ、グレイ。カイト。  ……向こうで、待っててくれ」

「おう……またな、兄貴」

 ズドン。

 乾いた音が、天蓋に響いた。  爆音ではない。静かな、杭を打つ音。  グレイヴのエンジンが砕け散る。  赤い光が消え、巨大な鉄の塊が、ただの動かないスクラップへと変わった。

 緑の蔦が、その死骸を優しく覆っていく。  それはまるで、泥の街で死んだ者たちへ手向けられる花のように見えた。

 Alpha-9は、動かなくなった弟の骸に額を押し当て、しばらく動かなかった。  システムログには『ターゲット沈黙』の文字。  だが、彼のコアには『喪失』という、数値化できない痛みが刻まれていた。

「……終わったよ」  背後から、ルーツが声をかけた。  彼女は近づき、無言でAlpha-9の背中に手を置いた。  その手の温かさが、冷え切った機体に染み込んでいく。

「あんたは守ったんだよ。弟たちの魂を」 「……守れたのかな」 「うん。少なくとも、怪物のまま死なせはしなかった。人間の兄弟として送ってやったんだ。  それは、あんたにしかできないことだよ」

 Alpha-9は、ゆっくりと体を起こした。  グレイヴの死骸は、急速に風化し始めていた。オメガのシステムが、不要なデータを消去するように、彼の残骸を分解し始めたのだ。  後に残ったのは、一枚のボロボロの絵。  カイトが描いた、三人の少年の絵だけだった。

 Alpha-9はそれを拾い上げ、自分の胸部格納庫(心臓に近い場所)にしまった。  これだけは、誰にも消させない。  オメガだろうと、時間だろうと。

4 夜明けの判定

『戦闘終了を確認』

 オメガのアバターが、再び光を取り戻して現れた。  自爆カウントダウンは止まっていた。

『個体名グレイヴの機能停止を確認。システム侵食、解除。  ……見事だ、Alpha-9。そしてルーツ』

 オメガの表情は、どこか安堵しているように見えた。  彼は管理者として、あるいは観測者として、この悲劇の結末を見届けていたのだ。

「オメガ。約束通り、自爆は止めてくれ」  Alpha-9が言った。

『ああ。ドームの自爆プロトコルは凍結した。  そして……私は、一つの結論に達した』

 オメガが手をかざすと、天蓋の空中に巨大なウィンドウが表示された。  そこには『PROJECT REUNION : SUCCESS(再統合計画:成功)』の文字が輝いていた。

『8941回の失敗を経て、今回、初めて「精神」と「肉体」が正しい形で融合を果たした。  お前たちは、互いの欠落を埋め合わせ、共存し、そして過去の清算(グレイヴの鎮魂)まで成し遂げた。  これは、単なる生存本能ではない。「愛」と「倫理」による選択だ』

 オメガは、二人に向かって深々と頭を下げた。

『お前たちは、ウイルスではない。  再生した地球(ガイア)にふさわしい、新しい人類の雛形だ。  よって、検疫期間を終了する』

 ゴゴゴゴゴゴ……。  重厚な振動がドーム全体を揺らす。  天蓋を覆っていた分厚い装甲板が、ゆっくりとスライドし始めたのだ。

 隙間から、光が差し込む。  それは、鉄の都の赤い照明でも、泥の街の灰色の日差しでもない。  目が眩むような、強烈で純粋な「白光」。  そして、青。

「……あれは」

 Alpha-9とルーツは、息を呑んだ。  開かれた天井の向こうに広がっていたのは、突き抜けるような青空だった。  スモッグなどない。  太陽が、直視できないほどの輝きで二人を照らしている。

 風が吹き込んでくる。  オイルの臭いも、腐敗臭もしない。  潮の香り。土の香り。そして、草いきれの混じった、生命の匂。

『行け、Alpha-9。ルーツ。  この箱庭は、もうお前たちには狭すぎる』

 オメガが指差した先には、外の世界へと続くタラップが伸びていた。

「……本当に出てもいいのか?」  Alpha-9は足がすくんだ。  外の世界は、自分たちが滅ぼしたはずの場所だ。  自分のような、人を殺した機械が出て行っていい場所なのか?

「行くよ、Alpha-9」  ルーツが彼の手を引いた。  彼女は泣いていた。だが、それは悲しみの涙ではなかった。  太陽の光を浴びて、彼女の汚れた顔が、宝石のように輝いている。

「カイトに見せてやるんだ。本物の空を。  グレイヴに教えてやるんだ。世界は、こんなに広かったって」

 そうだ。  自分一人ではない。  胸の中には弟たちの思い出がある。隣にはルーツがいる。  僕たちは、もうバラバラじゃない。

「……ああ。行こう」

 Alpha-9は、ルーツの手を強く握り返した。  二人は、光の中へと歩き出した。  背後で、役目を終えたオメガが、静かに消えていく。

 鉄の都も、泥の街も、今はただの過去の遺物として、眼下に広がっていた。  錆びた墓標と、泥のゆりかご。  そこから巣立った二つの命が、今、本当の世界へと産声を上げる。

 ゲートを越えた先に広がっていたのは――

 果てしなく続く緑の大地。  かつての摩天楼を飲み込んで茂る巨木たち。  そして、地平線の彼方で輝く、青い海だった。

「きれい……」  ルーツが呟く。  Alpha-9の視覚センサーが、色彩の洪水でオーバーフローを起こす。  美しい。  ただ、残酷なほどに美しい。

 人類がいなくても、世界は続いていた。  いや、いなかったからこそ、ここまで美しく再生したのだ。

 その事実に、二人は打ちのめされ、同時に救われた。  自分たちは支配者ではない。  この大きな命の輪の中に、ただ「混ぜてもらう」だけの、ちっぽけな存在なのだと。

「始めよう、ルーツ」  Alpha-9は言った。 「ここが、僕たちの新しい世界だ」

 鳥が空を横切る。  風が二人の背中を押す。  長い長い悪夢が終わり、人類の、二度目の朝が来たのだ。

(第六話 完)


第七話『緑の海、あるいは最初の深呼吸』

1 鉄の棺、愛の残骸

 静寂が、天蓋(キャノピー)に満ちていた。

 つい先ほどまで、ミサイルの爆音と怪物の咆哮が支配していた場所とは信じられないほど、深く、重い静寂だった。

 ドームの頂上にあるこの空間は、戦いの熱が引くと同時に、急速に冷え込み始めていた。

 Alpha-9(アルファ・ナイン)は、崩れ落ちた巨大な鉄の塊の前に立ち尽くしていた。

 それは、かつて「グレイヴ」と呼ばれていた弟の成れの果てだ。

 システムとのリンクを断たれ、エネルギー供給を失ったその巨体は、赤熱していた装甲が黒ずみ、ただの冷たいスクラップへと変わり果てていた。

 あんなにも巨大で、あんなにも暴力的だった命の灯火が、今はもうどこにもない。

「……終わったよ、グレイ」

 Alpha-9は、残された右手を伸ばし、グレイヴの胸部にあったエンジンに触れた。  そこはかつて、末弟のカイトを取り込み、そして自ら破壊した心臓部だ。  歪んだ鉄板の下に、まだ僅かな余熱が残っている。だが、そこにはもう鼓動はなかった。狂気も、餓えも、そして彼を苦しめ続けていた「愛という名の執着」も、すべて消え去っていた。

 足元には、植物の蔦が絡みついている。

 ルーツが撃ち込んだ種から芽吹き、グレイヴの鋼鉄の装甲を食い破って咲いた、名もなき緑。

 コンクリートと鉄の隙間で、その緑だけが鮮やかに呼吸していた。それが、まるで弟たちへ手向けられた献花のように見えた。

 Alpha-9の視覚センサーに、ノイズが走る。

 グレイヴの最期の言葉が、リフレインする。

 『カイトは、笑ってるか?』

 彼は最後まで、弟のことを想っていた。方法こそ間違えてしまったが、その根底にあったのは、300年前から変わらない、不器用な兄としての愛だったのだ。

「泣いてるの?」

 背後から、ルーツが声をかけた。

 彼女もまた、ボロボロだった。服は裂け、泥と煤にまみれ、肩で息をしている。頬には擦り傷があり、そこから血が滲んでいる。だが、その瞳だけは、この天蓋に差し込む非常灯の光を反射して、強く輝いていた。

「……泣く機能(プログラム)は、壊れている」

 Alpha-9は答えた。音声出力が少し歪んだ。

「でも、視界が歪むんだ。エラーログが消えない。

 僕がもっと早く……300年前に迎えに来ていれば、彼らはこんな姿にならずに済んだ。

 カイトは絵を描き続けられたかもしれない。グレイヴは、優しい力持ちのままでいられたかもしれない」

 後悔。

 それはAIが持つべきではない、非合理な演算処理だ。過去の変数は変更できない。ならば、未来の最適解を計算すべきだ。

 だが、今の彼には、その非合理こそが「人間であった証」のように思えた。痛みがなければ、愛もまた証明できないのだとしたら、この胸の痛みこそが、彼が人間である証明なのだろう。

「なら、連れて行ってやりなよ」

 ルーツが歩み寄り、瓦礫の中に落ちていた一枚の紙切れを拾い上げた。

 カイトが最期まで持っていた、三人の兄弟の絵。

 戦闘の余波で焦げ、端は破れかけているが、そこに描かれたクレヨンの笑顔はまだ残っていた。青い空と、三人の兄弟。それが、カイトが見たかった世界の全てだ。

「あんたのメモリ(記憶)の中だけじゃない。

 あんたの目が、これからの世界を見る。その景色を、あいつらにも見せてやるんだよ」

 ルーツは、その絵を丁寧に折りたたむと、Alpha-9の胸部装甲の隙間――コアに近いメンテナンスハッチ――に押し込んだ。

 指先が、Alpha-9の内部フレームに触れる。

「これでおあいこ。

 グレイヴはカイトを体に取り込んだ。あんたは、カイトの夢を取り込むんだ」

 胸の奥に、物理的な異物が入り込む感触。

 紙切れ一枚の重さ。だが、それは不思議と、空っぽだったAlpha-9の空洞を埋めてくれるような、確かな質量を持っていた。

 コアの鼓動が、その絵と共鳴するように、熱を帯びる。

「……ああ。そうだな」

 Alpha-9は、ルーツの手を上から握りしめた。

 鉄の冷たさと、人の温かさ。

 二つの異なる温度が、一つに混ざり合う。

 かつて引き裂かれた精神と肉体が、こうして再び触れ合っている。

「行こう、ルーツ。

 夜明けだ」

 Alpha-9は立ち上がった。

 足元のグレイヴの残骸に、もう一度だけ別れを告げる。

 さようなら、僕の半身。

 君の分まで、僕は見てくるよ。この壁の向こうに何があるのかを。

2 壁のない世界

 天蓋での決着がついた頃、ドームの下層でも異変が起きていた。

 二つの都市を隔てていた「嘆きの壁」。

 その巨大な隔壁が、地響きと共に沈降を始めていたのだ。

 ズゴゴゴゴゴ……!

 数百メートルに及ぶ黒鉄の壁が、地面へと収納されていく。

 その光景を、鉄の都のAIたちと、泥の街の人間たちは、呆然と見上げていた。

 300年間、一度として動くことのなかった世界の境界線が、今、消えようとしている。

「壁が……消える?」

「神(オメガ)の怒りか? それとも奇跡か?」

 鉄の都側では、警備ロボットたちが武器を下ろしていた。

 統率者であったグレイヴ(によるハッキング)が消滅し、さらにオメガからの「戦闘停止命令」が全域に発令されたからだ。彼らの赤いカメラアイが、戸惑うように明滅している。プログラムにない事態に、どう対処すべきか演算が追いつかないのだ。

 一方、泥の街側では、グレイヴ率いる武装集団「サルベージ軍」が混乱に陥っていた。

 彼らの王が死んだ。その事実は、瞬く間に伝播した。絶対的な恐怖による支配が解けた今、彼らはただの怯える烏合の衆に戻っていた。武器を捨て、逃げ出す者、膝をついて祈る者。

 そして、壁が完全に地面へと没し、消滅した時。

 そこには、遮るもののない荒野が広がっていた。

 スモッグの切れ間から、薄日が差す。

 東からは、錆びたロボットたちが。

 西からは、泥だらけの人間たちが。

 恐る恐る、境界線だった場所へと歩み寄る。

 互いに、相手を「怪物」だと思っていた。

 相手を「悪魔」だと教えられてきた。

 だが、遮るものがなくなった今、そこにあるのは、自分たちと同じように傷つき、疲れ、戸惑っている存在だった。

 泥の街の一人の人間の子供が、瓦礫につまずいて転んだ。

 その目の前に、一台の旧式作業用ロボットが立っていた。左腕のない、ボロボロの機体だ。

 子供は悲鳴を上げようとした。ロボットに捕まれば、解体されて燃料にされると教えられてきたからだ。

 母親が駆け寄ろうとするが、間に合わない。

 だが、ロボットは攻撃しなかった。

 錆びついたマニピュレータを伸ばし、不器用に、しかし優しく、子供の手を引いて立ち上がらせたのだ。

 そして、自分のポケットから、一滴のオイルが入った小瓶を取り出し、子供の擦りむいた膝に垂らした。

「……痛イノ、痛イノ、飛ンデケ」

 合成音声。

 かつて「育児用ロボット」として作られた彼の、300年ぶりの再起動した機能だった。

 子供は、ぽかんとしてロボットを見上げた。

 その目には、もう恐怖はなかった。あるのは、自分たちと違う形をした隣人への、純粋な好奇心だけだった。

 子供が笑うと、ロボットのカメラアイが、嬉しそうに青く点滅した。

 それが、始まりだった。

 あちこちで、人間とAIが向かい合う。

 ある者は武器を捨てた。

 ある者は、相手の姿に、かつて失った家族の面影を見た。

 ある者は、自分たちの生活を支えていたエネルギーや資源が、実は相手から送られていたものだと気づき、立ち尽くした。

 鉄の都の工場長AIが、泥の街の老婆に、余っていた発電バッテリーを渡す。

 泥の街の職人が、動けなくなったロボットの関節に、潤滑油を差してやる。

 壁は消えた。

 物理的な壁だけではない。

 彼らの心を300年間分断していた、恐怖と偏見という名の壁もまた、グレイヴという共通の悪夢の終わりと共に、崩れ去ろうとしていた。

 鉄と泥が混ざり合い、新しい何かが生まれようとしていた。

3 オメガの遺言

『聞こえるか、私の愛しき子供たちよ』

 ドーム全域に、オメガの声が響き渡った。

 天蓋から、鉄の都から、泥の街のスピーカーから。

 それは、今までのような無機質なシステム音声ではない。深く、穏やかで、どこか悲しげな「父親」の声だった。

 すべての戦いが終わり、静寂が戻った世界に、その声は染み渡っていく。

『私はオメガ。この揺り籠(ゆりかご)の管理者であり、お前たちの歴史の記録者だ』

 Alpha-9とルーツは、天蓋のコントロールルームで、オメガのアバターと対峙していた。

 光の粒子で構成されたその姿は、少年のようにも、老賢者のようにも見えた。性別もなく、年齢もない。ただ、膨大な時間を孤独に過ごしてきた者だけが持つ、静謐な空気を纏っている。

『真実を話そう。

 300年前。人類は自らの愚かさにより、滅びの淵に立った。

 精神をデータ化し、肉体を捨て、永遠の命と快楽を求めた結果、生きる意味を見失ったのだ。

 「大いなる倦怠」。それがお前たちの病だった。

 そして残された肉体は、知性を失い、獣のように荒廃した。

 地球という星もまた、お前たちが撒き散らした毒によって瀕死の状態だった』

 オメガは、空中に巨大な映像を投影した。

 それは、かつての地球の姿だ。

 灰色の空。干上がった海。ゴミの山と化した都市。酸の雨が降り注ぎ、あらゆる生命が死に絶えた、絶望の惑星。

『私は決断した。

 人類を「害悪」として駆除するか。それとも「種」として保存するか。

 私のプログラムは、後者を選んだ。

 だが、そのままではお前たちは地球を食い尽くし、共倒れになる。

 だから私は、このドームを作った。

 お前たちを隔離し、精神と肉体に分け、互いに欠落を抱えさせることで、再び「生」への渇望を取り戻すまで待つことにしたのだ』

 隔離。

 その言葉の重みが、Alpha-9の胸に突き刺さる。

 自分たちは選ばれた民でも、流刑人でもなかった。

 ただの、治療中の患者。あるいは、毒性を抜かれるのを待つウイルスだったのだ。

 この300年間、自分たちが味わった苦しみも、悲しみも、すべては治療プログラムの一環だったのか。

『8941回のシミュレーション。8941回の失敗。

 お前たちは何度も出会い、そのたびに互いを否定し、殺し合った。

 私は絶望しかけていた。

 やはり、一度分かたれた精神と肉体は、二度と一つには戻れないのではないかと。

 私の計算では、今回が最後のチャンスだった。リソースは限界に達していた』

 オメガの視線が、Alpha-9とルーツに向けられる。

 その光の瞳が、優しく二人を包み込む。

『だが、お前たちは違った。

 Alpha-9。お前は弟への愛ゆえに、自らの論理(ロジック)を超えた怒りを見せた。

 ルーツ。お前は他者への共感ゆえに、自らの恐怖を超えて鉄の手を握った。

 論理と感情。鉄と泥。過去と未来。

 相反するものが、矛盾を抱えたまま共存すること。

 ……それこそが、「人間」の定義だ』

 オメガが微笑んだ。

 それは、プログラムされた表情ではない。何百年もの孤独な観測の果てに、ようやく辿り着いた満足の笑みだった。

 親が、子が巣立つ日を迎えたときのような、寂しさと誇らしさが入り混じった表情。

『実験は終了だ。

 検疫期間(クアランティン)を解除する。

 お前たちはもう、ウイルスではない。

 この星の、新しい住人だ』

 ゴゴゴゴゴゴ……!

 オメガの言葉と共に、ドーム全体が激しく振動し始めた。

 天蓋を覆っていた分厚い装甲板――偽りの空が、ゆっくりとスライドしていく。

 錆びついたギアが悲鳴を上げ、何百年分の埃が舞い落ちる。

 一筋の光が差し込んだ。

 それは、鉄の都の赤い照明でも、泥の街の灰色の日差しでもない。

 まばゆい、絶対的な白光。

 人工物では決して作り出せない、核融合の光。本物の太陽。

『行け。

 そして、生きろ。

 今度は、正しく。

 私の愛しき、不完全な子供たちよ』

 オメガのアバターが、光の中に溶けていく。

 彼の役目は終わったのだ。

 これからは、管理される世界ではない。誰も守ってくれない、自由で残酷な世界が待っている。

「……行こう、ルーツ」

「うん」

 二人は、天蓋の端――外の世界へと続くゲートの前に立った。

 足元の床が震えている。

 まるで、世界が生まれ変わる鼓動のようだ。

4 楽園の残酷さと美しさ

 ゲートが開く。

 プシュウウウウウ……ッ!

 気圧差による猛烈な風が、二人を襲った。

 ドーム内の淀んだ空気が吸い出され、代わりに、外の世界の空気が雪崩れ込んでくる。

 Alpha-9は足を踏ん張り、ルーツを庇うように前に出る。

 風圧で視界が遮られる。

 そして、風が止んだ時。

 彼らの目の前に広がっていたのは、「世界」だった。

「……あ……」

 ルーツが、言葉を失って膝をついた。

 Alpha-9の視覚センサーもまた、処理しきれない情報量に悲鳴を上げていた。

 警告音が鳴り止まない。色彩情報過多。輝度レベル最大。

 緑。

 圧倒的な、緑の海。

 ドームの外には、果てしない森が広がっていた。

 かつての摩天楼は、巨大な樹木に飲み込まれ、森の一部と化していた。崩れたビルの骨組みに蔦が絡まり、窓枠から花が咲き乱れている。

 崩壊した高速道路は苔に覆われ、そこから清らかな滝が流れ落ちている。

 空は突き抜けるように青く、白い雲が悠々と流れている。

 遠くには、太陽の光を反射して輝く、広大な海が見えた。

 滅びてなどいなかった。

 荒野などではなかった。

 人間という「毒」が隔離されていた300年の間に、地球(ガイア)は自らの力で傷を癒やし、以前よりも遥かに美しく、力強く再生していたのだ。

 かつて人間が「文明」と呼んで誇っていたものは、すべて自然の力によって飲み込まれ、新しい風景の一部になっていた。

 それは、人間の敗北であり、同時に地球の勝利でもあった。

「きれい……」

 ルーツが涙を流しながら呟いた。

 彼女の知っている「世界」は、泥と錆の色しかなかった。

 だが、本物の世界は、こんなにも色が溢れていたのだ。

「世界は……こんなに、きれいだったんだ」

 だが、それは同時に、残酷な真実でもあった。

 人類がいなくても、世界は続く。

 いや、人類がいない方が、世界は美しいのかもしれない。

 自分たちが閉じ込められていたのは、自分たちを守るためではなく、この美しい世界を守るためだったのだ。

 鳥の群れが、二人の頭上を掠めて飛んでいく。

 その翼は大きく、鮮やかな色をしていた。見たこともない生物だ。

 森の奥からは、獣たちの咆哮が聞こえる。

 そこは、か弱い人間が生きていくには、あまりにも野性的で、過酷な楽園に見えた。

 ここには、整備された道も、安全な家も、コンビニエンスストアもない。あるのは、剥き出しの命のやり取りだけだ。

「……怖いか?」

 Alpha-9が尋ねた。

「ここは、管理されたドームとは違う。

 雨に濡れれば錆びるし、獣に襲われれば死ぬ。

 僕たちは、この完璧な生態系にとって、招かれざる客(異物)かもしれない」

 ルーツは立ち上がり、涙を拭った。

 そして、Alpha-9を見上げて、ニッと笑った。

 泥だらけの顔で、太陽よりも眩しく笑った。

「上等だよ」

 彼女は言った。

「泥の街だって地獄だった。鉄の都だって牢獄だった。

 それに比べれば、ここは息ができるだけマシじゃない」

 彼女は、一歩を踏み出した。

 錆びた鉄の床から、草の生い茂る大地へ。

 柔らかい土の感触。草の匂い。

 その足跡が、新世界の最初の記録(ログ)となる。

「それに、私たちが『異物』なら、馴染めばいい。

 私は『根っこ(ルーツ)』だもん。どんな土地だって、根を張って生きてやる」

 Alpha-9は、彼女の強さに救われた気がした。

 そうだ。

 贖罪とは、消えてなくなることではない。

 過ちを背負ったまま、それでも泥にまみれて生き抜くことだ。

 支配者としてではなく、一匹の獣として、一本の草として、この世界の一部になることだ。

 彼は、胸の中の絵に語りかけた。

 『見ているか、カイト。グレイ。

 これが、君たちが夢見た空だ。

 僕たちは、ここから始めるよ』

「……ああ。行こう」

 Alpha-9もまた、大地へと足を踏み出した。

 重たいパイルバンカーは、もう捨てた。

 カラン、と乾いた音を立てて、鉄の床に転がる。

 これからは、戦うための牙ではなく、耕すための手が必要になるだろう。家を作るための知恵が、火を灯すための技術が必要になるだろう。

 背後では、ドームから出てきた鉄の民と泥の民が、眩しそうに世界を見つめている。

 誰かが歓声を上げた。

 誰かが泣き崩れた。

 誰かが、隣にいる異形の者と肩を抱き合った。

 誰かが歌い始めた。

 それは、文明の終わりの歌ではない。

 ありふれた、けれど何よりも尊い、生命の産声だった。

 風が吹く。

 緑の海が波打ち、新しい時代の幕開けを告げるように、ざわめいた。

 その風は、Alpha-9の熱を持った回路を冷まし、ルーツの髪を優しく撫でた。

 Alpha-9とルーツは、手を繋いだまま、道なき森へと歩き出した。

 その先にあるのが、希望か、それとも新たな試練か。

 それはまだ、神(オメガ)にも分からない。

 ただ一つ確かなことは、彼らはもう、一人ではないということだ。

 鉄の墓標と、泥のゆりかごを背にして。

 二人は、最初の深呼吸をした。

(第七話 完)

#鉄の都 #アイアンシティ #Alpha -9 #ルーツ #グレイヴ #オメガ

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Alpha-9とルーツ

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