【まとめ版】クロスカラーウォーズ帝都蒼天録 新世界編 ― 摩天楼の狂騒曲【全5話】

Azure Chronicle
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第一章:黄金の泡と、機械仕掛けの林檎 ― The Jazz Age and the Steel Arm ―

狂騒の20年代(ローリング・トゥエンティーズ)

Cross Color Wars: Azure Chronicle
新世界編 ― 摩天楼の狂騒曲 ―
第一章:黄金の泡と、機械仕掛けの林檎 ― The Jazz Age and the Steel Arm ―

1. 狂騒の20年代(ローリング・トゥエンティーズ)

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大西洋から吹き込む風が、巨大な鋼鉄とコンクリートの森を駆け抜ける。
1920年代、アメリカ合衆国・紐育(ニューヨーク)。
第一次世界大戦の特需と大量生産の波に乗り、この国は人類史上かつてない「黄金時代」を謳歌していた。空へ空へと伸びる摩天楼、夜を昼に変える煌びやかなネオン、そして街角から絶え間なく響く狂騒的なジャズのリズム。
憲法によって酒が禁じられた「禁酒法時代」であるにも関わらず、地下の潜り酒場(スピークイージー)では、人々が密造酒に酔いしれ、終わらない享楽のダンスを踊り続けていた。
その摩天楼の一つ、真新しいアール・デコ調のビルの一室に、天海葵はいた。
彼の前には、帝都の路地裏にあったものより遥かに巨大な、ガラス張りのデスクがある。そこに広げられているのは、ウォール街の株価の推移を示すティッカーテープの山だ。
「……葵さん。本日の、糖分です」
背後から声がし、銀のトレイがデスクに置かれた。
そこに乗っていたのは、真っ赤なチェリーソースが滴る『ニューヨーク・チーズケーキ』と、奇妙な黒い液体に純白のアイスクリームが浮かぶ『ルートビア・フロート』だった。
「……ありがとう、凛」
葵が振り返る。
彼にトレイを差し出した蒼井凛の姿は、帝都時代から大きく変貌していた。
彼女の右腕——かつての戦いで修復不可能なまでに破壊されたその腕は、アメリカの最新鋭の航空機工学と、葵の狂気的なまでの演算設計によって生み出された『純然たる機械の腕(サイバネティック・アーム)』へと置き換えられていた。
もはや「カラクリのふり」ではない。
チタン合金の骨格に、本物の人工筋肉が這うその腕は、彼女が人間から機械へと足を踏み入れた最初の証だった。
「……葵さん、どうかしましたか?」
凛が、機械の指先で滑らかにトレイを片付けながら首を傾げる。その駆動音はかつての「カチ……リ」という武骨なものではなく、ほぼ無音の、完璧で冷たい電子サーボ音に変わっていた。
「いや……。少し、帝都の珈琲を思い出しただけです」
葵はルートビア・フロートにストローを挿し、一口吸い込んだ。
湿布薬のような独特のハーブの香りと、突き刺さるような炭酸。そこに溶け出すバニラアイスの暴力的なまでの甘み。
「……計算開始。この国の甘味は、金平糖のような繊細さも、羊羹のような奥深さもない。ただひたすらに直接的で、脳の報酬系を力任せに殴りつけるような味だ。……だが、今のこの狂った『黄金時代』のノイズを処理するには、これくらい下品な熱量(カロリー)が必要らしい」
葵の瞳の奥で、摩天楼を覆う無数の経済指標と、人々の欲望のベクトルが数式化されていく。
「凛。この国の繁栄は、中身のない巨大な『泡(バブル)』です。人々は無限に富が増え続けると錯覚し、実体のない紙切れ(株)に熱狂している。……そして九条は、やはりこの大陸に渡ってきていた。彼女はこの狂騒の底に、極上の『紫の毒』を流し込んでいる」

2. 紫の密造酒(パープル・ブートレグ)

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その夜、マンハッタンの地下深く。
イタリア系マフィアが牛耳る巨大な秘密倉庫では、ジャズバンドの生演奏の中、フラッパー(新しい女性たち)とマフィアの幹部たちがグラスを傾けていた。
彼らが飲んでいるのは、粗悪な密造ジンではない。
グラスの中で妖しく発光する、紫色の酒——『パープル・バブル』。
「ハハハ! 飲め、もっと飲め! この酒を飲むと、株価の上がり下がりが手に取るようにわかる気がするぜ! 明日も俺たちは大金持ちだ!」
マフィアのボスが、葉巻を咥えながら紫の酒を一気に飲み干す。
彼の瞳は、すでに極限の強欲と、それを失うことへの「見えない恐怖」によって紫色に濁っていた。
九条が持ち込んだ「紫のエーテル」は、禁酒法という抑圧された社会の中で「違法な酒」という最悪の形態をとり、アメリカの裏社会を侵食していた。それは人々の欲望を際限なく肥大化させ、同時に「いつかこの繁栄が終わるかもしれない」という恐怖を、狂乱のダンスで無理やり忘れさせようとする毒だった。
「……随分と、下品なパーティーですね」
喧騒の中、倉庫の重厚な鉄扉が音を立てて吹き飛んだ。
もうもうと舞う粉塵の中、インバネスコートを脱ぎ捨て、タイトな黒のスーツに身を包んだ葵が、冷ややかな視線でマフィアたちを見下ろしていた。
「なんだ手前は!? 警察(サツ)のガサ入れか!」
マフィアたちが一斉にトンプソン・サブマシンガン(シカゴ・タイプライター)を構える。
「警察ではありません。……私は、あなた方の狂った計算式(バランスシート)を修正しに来た、ただの会計士(オーディター)です。……凛」
「了解(イエス・サー)。……出力、リミッター解除。対象の物理的排除を開始します」
葵の影から、凛が弾丸のように飛び出した。
彼女が着ているのは、動きやすいモダンなスリットドレス。だが、その右腕の袖は引きちぎられ、銀色に輝く機械の腕が剥き出しになっていた。
「撃て!!」
数十丁のマシンガンが火を噴く。
しかし、凛の動きは人間のそれを完全に超越していた。機械化された右腕は、脳の電気信号をロスなく伝達し、コンマ数秒の世界で弾道を計算・回避する。
「……遅い」
凛の機械の拳が、マフィアの男の腹部を捉える。
衝撃波が倉庫の樽を吹き飛ばすほどの威力。男たちは悲鳴を上げる間もなく、次々と宙を舞い、壁に叩きつけられていった。

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凛の機械の拳

3. 氷結の摩天楼

「化け物め……! なら、これごと吹き飛ばしてやる!」
追い詰められたマフィアのボスが、紫の酒が詰まった巨大な蒸留タンクにダイナマイトを投げ込もうとした。
それが爆発すれば、地下に溜まった紫のエーテルが気化し、マンハッタン中枢部の人間を全員「強欲の狂人」に変えてしまう。
葵は懐から、特注の『アクアストライカー・リボルバー』を抜いた。
長距離用の狙撃銃から、市街地戦に特化して小型化・高圧縮化された蒼き氷結銃。
葵は、胃の中で暴れるチーズケーキの重い脂質と、ルートビアの甘みを強制的に演算力へと変換した。
「……弾道計算、完了。大気の湿度、四十パーセント。アルコールの気化熱を利用し、連鎖凍結を起こす」
「静まれ。……『アブソリュート・ゼロ・ダウンタウン』」
放たれた青い閃光が、ダイナマイトの導火線ではなく、巨大な蒸留タンクのど真ん中を撃ち抜いた。
瞬間、すさまじい冷気が爆発的に膨張した。
紫の酒は一瞬にして美しくも禍々しい蒼い氷の結晶へと変わり、蒸留タンクごと、マフィアたちを冷たい氷の彫刻のように床へ縫い付けた。

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アブソリュート・ゼロ・ダウンタウン

4. 人間の限界、サイボーグへの誘済

氷の冷気が漂う倉庫の中。
マフィアたちは凍傷で気を失い、ジャズの音楽も完全に途絶えていた。
「……葵さん、制圧完了です。私の右腕の稼働率、問題ありません。ですが……」
凛は、自分の銀色の右腕を見つめた。
その腕は一切傷ついていなかったが、逆に残された「人間の左腕」や足の筋肉が、機械の超スピードについていけず、内出血を起こして紫色に腫れ上がっていた。
「……生身の肉体が、機械の計算(スピード)の邪魔をしています。葵さん……私、もっと『機械』になりたい。あなたの計算を完璧にこなすために、残りの肉体も、すべて……」
凛の瞳に、機械としての純粋すぎる忠誠心が揺れる。
葵は痛ましそうに目を伏せ、自分のスーツのポケットからハンカチを取り出し、凛の生身の腕の血を優しく拭った。
「……ダメです、凛。人間の部分を失えば、あなたはただの兵器になってしまう」
「あら、そうかしら?」
氷結した蒸留タンクの上。
豪奢な毛皮のコートを羽織り、紫の羽根飾りのついたヘッドドレスを被った九条が、煙管(きせる)を吹かしながら見下ろしていた。
「九条……!」
「素晴らしいダンスだったわ、機械のお嬢さん。……でも天海卿、あなたも気づいているはずよ。この狂騒の時代(1920年代)の熱量は、人間の脳と肉体で処理できる限界を超えている。この国が向かっているのは、天国じゃない。世界中を巻き込む、巨大な経済の崩壊(ブラック・サーズデー)よ」
九条は、摩天楼の頂を指差すように天井を見上げた。
「人は、無限の欲望という『神』に近づくために、自らの肉体を捨てる時が来る。……あなたたちも、いずれ選ぶことになるわ。自分の青い正義を守るために、その脆弱な人間の脳と心臓を、冷たい機械の回路に置き換える日をね。……100年後の新宿で、あなたたちがどんな姿になっているか、楽しみだわ」
九条は紫の煙に包まれ、ジャズの残響と共に消え去った。
5. 摩天楼の底で
「……葵さん。九条の言う通りです。私の体は、もう……限界が近い」
凛が膝から崩れ落ちそうになるのを、葵が抱きとめる。
葵自身も、度重なる極限の演算と、強烈な糖分の過剰摂取により、生身の脳の血管が悲鳴を上げているのを感じていた。
「……凛。私たちは、人間としての弱さを抱えたまま、この狂った世界を調律しようとしてきた。だが、時代はそれを許してはくれないようだ」
葵は、凍りついた倉庫を見つめながら、静かに、しかし決意に満ちた声で言った。
「もし、この世界のすべての熱狂を静めるために、私が機械の脳を持たねばならないのなら。……そして、あなたがその手足を鋼に変えねばならないのなら」
葵は、凛の機械の右手を、自らの両手で固く握りしめた。
「私は、あなたと共に『人間』を捨てる覚悟があります。……帰りましょう、凛。そして、次の計算を。この巨大な泡(バブル)が弾ける前に」
二人の影が、氷漬けの地下倉庫から、ネオンが不気味に瞬くニューヨークの夜の街へと消えていく。
彼らが完全なサイボーグとなり、100年後の新宿の摩天楼に立つまでの、長く、冷たく、そして哀しい「機械化の歴史」が、今この狂騒のアメリカで産声を上げたのである。

(第二話へ続く)

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#ニューヨーク

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機械化の歴史

第二章:無色の歯車、鋼鉄の洗礼 ― The Colorless Automata ―

Cross Color Wars: Azure Chronicle
新世界編 ― 摩天楼の狂騒曲 ―
第二章:無色の歯車、鋼鉄の洗礼 ― The Colorless Automata ―

1. 帝都からの逃亡、人工の虹

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ジェリービーンズ

「……葵さん、糖分です。この国の労働者が好む、最も安価で効率的な熱量(カロリー)……『ジェリービーンズ』です」
ニューヨーク、ブルックリンの薄暗い隠れ家。
蒼井凛が、右腕の銀色の機械腕(サイバネティック・アーム)を微かに唸らせながら、ガラスのボウルを机に置いた。
中には、赤、青、黄、緑と、毒々しいまでに鮮やかな色に染められた豆状の砂糖菓子が山盛りになっている。
天海葵は、すり切れたインバネスコートの代わりに、目立たないグレーのツイードスーツを着ていた。彼は疲労の色が濃い顔で、ジェリービーンズを一掴み口に放り込む。
「……見た目は極彩色だが、目を閉じて噛み砕けば、どれも同じ『ただの砂糖と香料の塊』だ。和菓子のような歴史も、素材の調和もない。ただ血糖値を急上昇させるための、均一化された無機質な甘み。……実に、今のこの大陸を象徴している」
彼らは数ヶ月前、帝都を追われた。
狂信的な軍国主義に染まった軍部(赤チームの成れの果て)と、それを裏で操る九条(紫)にとって、世界を冷徹に調律しようとする葵の「青い数式」は、目障りな不純物でしかなかったのだ。特高警察の激しい追撃の中、凛は葵を庇って左半身に致命的な重傷を負い、二人は這うようにして貨物船に密航し、この新天地へと流れ着いたのである。
「葵さん。頭痛は……?」
「……問題ありません。ただ、生身の脳の血管が、私の求める演算速度に耐えられなくなりつつあるだけです」
葵はこめかみを押さえた。彼が求める「世界を救うための計算」は、もはや人間の肉体が許容できる情報量を遥かに超えていた。

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ジェリービーンズ

2. 新世界の発明「無色の勢力」

「凛。帝都の狂気から逃れてきたというのに、この新世界では、より恐ろしい『発明』が産声を上げています。……『無色(クリア)』の奴らです」
葵は、机に広げたニューヨークの工業地帯の地図を指差した。
1920年代のアメリカは、大量生産と効率化の極致にあった。しかし、その影で、人間そのものを「感情のない機械部品」へと作り変えようとする未知の勢力が暗躍し始めていた。
「無色……。赤の熱情でも、紫の恐怖でもなく、ですか」
「ええ。彼らを率いる天才発明家『白亜(ハクア)』の思想は、極限の合理性です。争いを生む感情、疲労、恐怖……それら『色』を人間の脳から完全に抜き取り、ただ命令通りに動き、消費するだけの『無色の歯車』へと改造している。すでにマンハッタン郊外の巨大秘密プラントでは、数千人の浮浪者や移民が、感情を失った労働自動人形(オートマトン)へと変えられている」
それは、葵の掲げる「人々のささやかな営みを守るための調律(青)」とは対極にある、完全なる「虚無」だった。
「行きましょう、凛。人間から心を奪うシステムは、私が凍らせる」

3. 絶望のプラント、演算の限界

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巨大な無色プラント

郊外の巨大な無色プラント。
そこは、蒸気と電気の匂いが充満する、狂気の大量生産工場だった。
ベルトコンベアの前には、瞳の焦点を失い、顔色を文字通り「白紙」のように失った人間たちが、一糸乱れぬ動きで謎の機械部品を組み立て続けている。
「……無駄なことですよ、天海葵」
工場の最深部、ガラス張りの司令室から、純白のスーツを着た男——白亜が、冷たいスピーカー越しの声で語りかけた。
「人間が色(感情)を持つから、戦争が起き、バブルが弾けるのです。私は人間の脳から大脳辺縁系を切り離し、完璧な論理回路を埋め込んだ。彼らはもう、泣きも笑いもしない。ただ『効率』のためだけに生きる、完璧な世界(クリア・ワールド)の住人です」
「それは生きているとは言わない。ただの屍の行進です!」
葵が狙撃銃『アクアストライカー』を構えた瞬間、工場の天井から、白亜の護衛である数十体の「完全機械化兵士」が降り立った。彼らは人間ではなく、最初から殺戮と防衛のためだけに作られた、無機質な鋼鉄の殺戮人形だ。
「凛、突破します!」
「了解。……出力臨界!」
凛が機械の右腕を唸らせて突進する。
しかし、敵は感情がないゆえに、一切のフェイントに引っかからず、完全な連携で凛を包囲した。
「ガァァッ……!」
凛の生身の右脚が、機械兵の刃によって深く切り裂かれる。人間の肉体が放つ悲鳴と血しぶき。機械の右腕で二体を粉砕するが、残された生身の部分が、機械の超高速戦闘に全くついていけない。
「凛!」
葵が氷結弾を放ち、三体の機械兵を凍らせる。
だが、その直後。
――ブチッ。
葵の脳内で、何かが切れる嫌な音がした。
「……あっ、ぁ……」
極限の弾道計算と、強烈な人工甘味料の過剰摂取によって、葵の脳血管がついに破裂限界を迎えたのだ。激しい吐き気と激痛が葵を襲い、彼は膝から崩れ落ちた。視界が真っ赤に染まり、数式が崩壊していく。
「あはははは! 見なさい、それが人間の『肉体』の限界です!」
白亜が嘲笑う。
「あなたの美しい青い数式も、血の通った脆弱な脳髄という『容器』に入っている限り、私の無色の軍団には決して勝てない!」
機械兵の銃口が、血を流して倒れる凛と、動けなくなった葵に向けられた。

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『肉体』の限界

4. 人間を捨てる選択

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人間を捨てる選択

「……葵、さん……」
凛が、這いつくばりながら葵の前に出た。彼女の右半身は血に染まり、もはや立ち上がることもできない。
「……私の、せいです。私が、ただの人間だから……あなたを、守れない……」
凛の目から、機械には流せないはずの涙がこぼれ落ちた。
葵は、薄れゆく意識の中で、工場の奥にある「機械化手術ポッド(オート・サージェリー)」を見つめた。白亜が、人間を無色のオートマトンに改造するための悪魔の装置。
「……凛。私たちは、帝都から逃げ続けてきた。……だが、もう逃げ場はない。この無機質な狂気(無色)から、人間の心(青)を守るためには……」
葵は、血を吐きながら凛の機械の左手を握りしめた。
「……皮肉な話です。人間を守るために、私たちが『人間』を捨てなければならないとは。……凛、あのポッドに私を運んでください。そして、あなたも」
「葵さん……!」
「私の脳を、機械の演算回路に直結させる。……あなたも、その傷ついた生身のすべてを、鋼鉄に置き換えなさい。……私たちの『心』だけを、鋼の檻に閉じ込めるのです」
凛は涙を拭い、機械の左腕だけで葵の体を抱き上げた。
迫り来る機械兵の弾幕を、残された左腕の装甲で弾きながら、二人は血だらけになってポッドの中へ飛び込んだ。
「馬鹿な! そのポッドは人間の脳髄を焼き切り、ただの歯車に変えるものだ! 自ら無色になるつもりか!」
白亜が司令室で叫ぶ。
ポッドのハッチが閉じる直前、葵は血に染まった口元で、不敵に笑った。
「……私の『青』は、こんな鉄の箱ごときで、色褪せはしない……」

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人間を捨てる選択 蒼の絆

5. 鋼鉄の新生、絶対零度の洗礼

数十秒後。
工場全体を揺るがすような、莫大な電力の逆流が起きた。
白亜の司令室の計器が次々とショートし、赤い警告灯が点滅する。
「な、何が起きた!? ポッドの出力が……マイナスに振り切れているだと!?」
シューーーーッ……。
極低温の蒸気と共に、ポッドのハッチが吹き飛んだ。
中から現れたのは、もはや「人間」の枠を完全に超えた二つのシルエットだった。

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完全戦闘用サイボーグ・ボディ

天海葵。
彼の左目と側頭部には、脳の演算を冷却・拡張するための青く光る『量子演算ターミナル』が埋め込まれ、首筋から背骨にかけて、銀色の冷却パイプが這っていた。彼の脳は、もはや血管の破裂を恐れることなく、神の如き速度で数式を弾き出す。

そして蒼井凛。
彼女の体から「人間の柔らかな肌」は完全に消え去っていた。首から下はすべて、アメリカの最先端技術と葵の再設計によって生み出された、流線型の銀色に輝く『完全戦闘用サイボーグ・ボディ』へと変貌を遂げていた。
「……計算、再開(リブート・コンプリート)。脳の冷却率、千二百パーセント。ジェリービーンズの糖分を、純粋な電気信号へと変換」
葵の声には、痛みの響きが一切なくなっていた。
あるのは、絶対的な冷徹さと、深い悲しみだけ。
「……葵さん。私の全駆動系、オンライン。……もう、血を流すことはありません。あなたのための、完璧な『剣』です」
凛のサイバネティックな瞳が、青白く発光する。
「化け物め……殺せ! その鉄屑どもをスクラップにしろ!」
白亜が絶叫し、数十体の機械兵が一斉に襲いかかってきた。
しかし、新生した二人の前では、それは止まった映像も同然だった。
「凛、ベクトル指定不要。……すべてを『無』に還しなさい」
「了解(イエス・サー)。……絶無(ゼロ・ドライブ)、起動」
凛が姿を消した。
人間の視神経では捉えきれない超音速の機動。次の瞬間、数十体の機械兵は、銃を構えた姿勢のまま、文字通り「粉々の鉄屑」となって空中に四散した。
「ば、馬鹿な……私の無色の軍団が、一瞬で……!」
白亜が腰を抜かす中、葵はゆっくりと狙撃銃『アクアストライカー』を構えた。
銃自体も、葵の機械化された腕の端子と直結し、彼の一部と同化している。
「白亜。人間から感情(色)を奪うことは、平和ではない。ただの死だ。……あなたが望んだ『無色』の冷たさを、その身で味わうといい」
「静まれ。……『アクアストライカー・絶対零度・虚空(アブソリュート・ゼロ・ヴォイド)』」
葵の機械の義眼が照準をロックする。
放たれた一撃は、光そのものだった。
白亜の司令室、そして人間を改造していた悪魔のプラント全体が、一瞬にして音すら凍りつく絶対零度の氷塊へと変貌した。
無色の狂気は、青い氷の底に完全に封じ込められたのである。

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『アクアストライカー・絶対零度・虚空(アブソリュート・ゼロ・ヴォイド)』

6. 新宿へ続く、鋼の誓い

氷に包まれた工場の外に出ると、ニューヨークの夜が白み始めていた。
「……終わりましたね、葵さん」
凛が、自分の銀色に輝く両手を見つめる。もはやそこには、人間の温もりも、痛みもない。
「ええ。……私たちは、ついに後戻りできない一線を越えた。青の心を保つために、肉体を無機質な機械へと売り渡した」
葵は、自らの頭部に埋め込まれた冷たい端子に触れた。
「悲しいですか、凛」
「いいえ」
凛は、機械の瞳で真っ直ぐに葵を見つめた。
「人間の体を失っても、私の心の中には、あなたが淹れてくれた珈琲の温かさと、一緒に食べたカステラの甘い記憶が残っています。……この記憶のデータが消去されない限り、私は『蒼井凛』です」
葵は微かに微笑み、凛の鋼鉄の肩を抱き寄せた。
「……そうですか。ならば、どれほど時代が流れようとも、私たちの『調律』は終わらない。私たちの肉体が滅びず、この狂った世界が続く限り」
この日、二人の人間は死に、二体の「青きサイボーグ」が誕生した。
彼らはこの狂騒のアメリカを抜け、やがて来る世界大戦を暗躍し、そして100年後の不夜城——あのネオン瞬く『新宿』の摩天楼へと辿り着くことになる。
人間の心を持った機械たちの、長きにわたる孤独な戦いの歴史。
それは、帝都から新世界へと渡った二人が、自らの血と肉を代償にして刻み込んだ、永遠に色褪せることのない蒼き誓いなのである。

(―第二章:無色の歯車、鋼鉄の洗礼 ― The Colorless Automata ― 完)

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ニューヨークの夜が白み始めていた 朝陽

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第三章:暴食の資本、大樹の逆襲 ― The Emerald Wrath ―

Cross Color Wars: Azure Chronicle
新世界編 ― 摩天楼の狂騒曲 ―
第三章:暴食の資本、大樹の逆襲 ― The Emerald Wrath ―

1. 鋼の脳髄と、大地のパイ

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ピーカンパイ

「……葵さん。本日の、糖分です。アメリカ南部の土壌が育んだピーカンナッツを、大量のコーンシロップと共に焼き上げた『ピーカンパイ』です」
ニューヨーク・マンハッタンの摩天楼を見下ろす、無機質なセーフハウス。
完全なサイボーグへと新生した蒼井凛が、一切の足音を立てずに銀のトレイを運んできた。彼女の滑らかな流線型のチタンボディは、月光を反射して青白く輝いている。
天海葵は、窓際で静かに夜景を見つめていた。彼の左目から側頭部を覆う『量子演算ターミナル』が、微かな駆動音と共に青い光の明滅を繰り返している。
「……ありがとう、凛。いただきます」
葵はピーカンパイをフォークで切り出し、口に運んだ。
人間の胃袋を捨て、人工の消化炉とエネルギー変換器を内蔵した彼の体であっても、「味覚」というデータだけは脳の報酬系に直接届くように設計されていた。
香ばしいナッツの風味と、脳を痺れさせるような暴力的なシロップの甘み。
「……計算開始。ナッツの脂肪分と糖分が、人工血液を介して瞬時に量子脳の冷却液へと変換されます。……素晴らしい効率ですが、同時にひどく『土臭い』味がする。これは、無理やり切り拓かれた大地の血の味です」
葵のサイバネティックな義眼が、ティッカーテープの株価情報から、アメリカ全土の「資源開発」のデータへと焦点を切り替える。
「資本主義……。人間の欲望を肯定し、無限の成長を是とするシステム。それは確かにこの国に黄金時代をもたらしました。ですが、その代償として、彼らは森を焼き、山を削り、川をコンクリートで埋め立てている」
「……その『代償』の請求書が、届いたということですね」
凛の機械の瞳が、静かに光る。
「ええ。ペンシルベニア州の巨大な森林伐採場と、それに続く新興の工業都市が、たった一晩で『緑の波』に飲み込まれました。……【緑のチーム】が、ついに牙を剥いたのです」

2. 翠(みどり)の暴走、逆襲の森

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緑のチームの長、常盤(ときわ)

翌日の未明。
ペンシルベニア州の森林地帯に足を踏み入れた葵と凛の視界に飛び込んできたのは、常軌を逸した光景だった。
数日前まで巨大な伐採機械の駆動音が響き、黒煙を上げていたはずの工業地帯が、完全に「森」に沈んでいたのだ。
ただの森ではない。鋼鉄のクレーンは直径数メートルもある巨大な蔦(つた)に締め上げられて飴細工のようにへし折られ、工場のコンクリート壁は内部から爆発的に成長した根によって粉砕されていた。
逃げ遅れた労働者たちが、無数の蔦に捕らえられ、空中に吊るし上げられている。彼らの生気は、植物たちに養分として吸い取られているようだった。
「……自然の成長速度ではありません。細胞分裂が、通常の数万倍に加速されています」
葵は、足元でアスファルトを突き破って伸びてくるシダ植物を、銀色の靴底で踏み砕いた。
「よく来たな、鉄屑の同類ども」
鬱蒼と生い茂る巨大なシダの葉を掻き分け、一人の男が姿を現した。
褐色の肌に、深い緑の民族衣装を纏った大男。彼の全身には、植物の葉脈のように緑色に発光する刺青(タトゥー)が刻まれている。
緑のチームの長、常盤(ときわ)だった。
「常盤……。あなたが、この『翠(みどり)のエーテル』の発生源ですか」
「そうだ。俺の先祖が守ってきたこの大地を、毛唐どもは紙幣(ドル)に変えるために切り刻んだ。資本主義という名のガン細胞が、この星を殺そうとしている! だから俺は、母なる大地の『免疫機能』を目覚めさせたのだ!」
常盤が両手を広げると、周囲の樹木が意志を持ったかのようにうごめき、巨大な木の槍となって葵たちに降り注いだ。
「凛、防衛を。演算リソースの七割を、空間把握に回します」
「了解(イエス・サー)。……絶無(ゼロ・ドライブ)、起動」

3. 鋼鉄の刃、フィボナッチの軌跡

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鋼鉄の刃

凛の銀色の体が、緑の猛攻の中へ弾丸のように飛び込んだ。
かつての「生身の限界」という足枷を完全に捨て去った彼女の機動力は、もはや嵐のようだった。
両腕の装甲から展開された高周波ブレードが、襲い来る大木の槍を次々とミクロン単位の正確さでスライスしていく。
「ガァァァッ! 忌まわしい機械め! 土に還れ!」
常盤が吠えると、地面が割れ、巨大な食虫植物のような怪物(プラント・キメラ)が数匹、這い出してきた。
「凛、蔦の動きには規則性があります。自然界の成長法則……『フィボナッチ数列』の螺旋構造です。私が軌道を予測し、視界に投影します」
葵の量子脳が、莫大な計算を瞬時に完了させる。
ピーカンパイのカロリーが、極限の冷却液となって彼の電子頭脳を駆け巡る。彼の左目のターミナルから、凛の視覚野へと直接、緑の軌跡の「予測線」が送られた。
「……軌道予測、受信。すべて見えます、葵さん」
凛は空中で体を捻り、四方八方から襲い来る蔦の「数秒後の位置」を完全に先読みし、一切の無駄のない動きで斬り抜けていく。緑の血液(樹液)が空中に舞い、彼女の流線型のボディを濡らす。
「化け物め……! ならば、大地の心臓で押し潰してやる!」
常盤が自らの胸に光る「翠のコア」に手を当てた。
瞬間、工業地帯の中心にそびえ立つ一際巨大な『世界樹』のような大木が、地鳴りを上げて動き出した。数万トンの質量を持つ巨大な根が、葵を圧殺すべく頭上から降り注ぐ。

4. 悲しき調律、絶対零度の森


「……常盤。あなたの怒りは正当だ。資本主義の貪欲な膨張は、確かにこの星の寿命を削っている」
葵は、迫り来る巨大な根の影の中で、静かに狙撃銃『アクアストライカー』を構えた。彼の義眼は、巨大な世界樹の奥深くで脈打つ「翠のコア」の正確な座標を捉えていた。
「だが、だからといって、無関係な労働者や市民を養分にしていい理由にはならない。人間の営みを完全に否定する『過剰な緑』は、私にとっては排除すべきノイズです」
葵のサイバネティックアームが、狙撃銃のシステムと完全にリンクする。
「静まれ。……『アクアストライカー・絶対零度・永久凍土(パーマフロスト)』」
放たれた蒼き閃光が、狂ったように暴れる巨大な根の隙間を縫い、世界樹の中心部を正確に貫いた。
――ピキィィィィン!!
緑の暴走が、一瞬で停止した。
翠のエーテルによって発生していた莫大な「成長の熱量」が、葵の絶対零度によって完全に相殺されたのだ。
天を突く世界樹も、うごめく蔦も、食虫植物も、すべてが美しい蒼い氷の彫刻へと変貌していく。捕らえられていた労働者たちが、凍りついた蔦から次々と解放され、地面に崩れ落ちた。
「おのれ……! 天海葵ィィッ!!」
常盤は、自らの片腕が凍りつくのを防ぐため、即座にその腕を切り落とし、血(樹液)を流しながら後退した。
「……覚えておけ、青の調律者よ。貴様がいくら人間を守ろうとも、人間の欲望(資本主義)が自然を破壊し続ける限り、大地は決して貴様らを許さない。……いずれこの星は、すべてを振り払うために真の怒りを見せるだろう!」
常盤は、凍りついた森の奥深くへと姿を消した。

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『アクアストライカー・絶対零度・永久凍土(パーマフロスト)』

5. サイボーグの祈り

静寂が戻った氷の森。
冷たい冷気が、葵のインバネスコートの裾を揺らしていた。
「……葵さん。周囲の生体反応、正常化しました。民間人の救出、完了です」
凛が、ブレードの樹液を振り払いながら葵の元へ降り立つ。彼女の銀色のボディは、一切の傷を負っていなかった。
「……お疲れ様、凛」
葵は、凍りついた巨大な森を見上げた。
「……常盤の言う通りです。資本の膨張は、自然の摂理を無視して進み続けている。私がここで緑の怒りを凍らせたことは、人間の傲慢な破壊活動を『肯定』してしまったことと同義かもしれない」
葵の人工の心臓が、微かに痛みを覚えたように錯覚した。
人間を守れば、自然が死ぬ。自然を肯定すれば、人間が死ぬ。
青の調律者として、彼が選んだのは「今を生きる人々の命を、ただ冷徹に守り抜く」という、果てしなく孤独で矛盾に満ちた道だった。
「葵さん」
凛が、冷たい鋼鉄の手で、葵の頬にそっと触れた。
「私たちが人間を捨てたのは、その矛盾を背負い続けるためです。……あなたの計算がどれほど悲しい答えを導き出そうとも、私はあなたの傍らで、その十字架を共に背負います」
機械の瞳から向けられる、一点の曇りもない絶対の信頼。
葵は微かに微笑み、彼女の鋼の手の上に自分の手を重ねた。
「……ええ。ありがとう、凛。帰りましょう。この国にはまだ、凍らせなければならない狂騒(バブル)が残っている。……それに、口の中のピーカンパイの甘みが、少しばかり土臭すぎました。次は、ブラック珈琲を多めにお願いします」
「了解(イエス・サー)。あなたの脳髄に、最高の苦味をお届けします」
氷漬けにされた森を背に、二体の青きサイボーグは歩き出す。
摩天楼の狂騒と、大自然の怒り。
1920年代のアメリカという巨大な坩堝(るつぼ)の中で、彼らの孤独な調律は、まだ始まったばかりだった。

(第四話へ続く)

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サイボーグの祈り

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#帝都蒼天録 #新世界編
#天海葵 #天海蒼  #蒼井凛 #緑チーム #九条瑠璃
#Workfine
#緑チーム #常盤 #摩天楼の狂騒曲
#暴食の資本大樹の逆襲


第四章:虚無の甘味、暗黒の月曜日(ブラック・マンデー) ― The Purple Depression ―

Cross Color Wars: Azure Chronicle
新世界編 ― 摩天楼の狂騒曲 ―
第四章:虚無の甘味、暗黒の月曜日(ブラック・マンデー) ― The Purple Depression ―

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コットンキャンディ(綿菓子)

1. 巨大な空洞(バブル)と綿菓子

「……葵さん。本日の、糖分です。遊園地(コニーアイランド)で大量に消費されている、空気と砂糖の魔術……『コットンキャンディ(綿菓子)』です」
1929年10月。ニューヨーク・ウォール街を見下ろす高層ビルのセーフハウス。
サイボーグ・ボディの駆動音を完全に殺した蒼井凛が、巨大なピンク色の綿菓子をトレイに乗せて運んできた。
天海葵の左目を覆う『量子演算ターミナル』には、証券取引所から送られてくるティッカーテープの株価データが、滝のような速度で流れ込み続けている。
「……ありがとう、凛」
葵は機械の指先で、ふんわりと膨れ上がったピンク色の塊をちぎり、口に放り込んだ。
舌に触れた瞬間、それはあっけなく溶け、ただの少量の砂糖水へと還元される。
「……計算開始。見た目は巨大で華やかですが、中身はほとんどが『空洞(空気)』。噛み応えもなく、腹を満たすこともない、完全なる虚構の甘みです」
葵は、義眼に映る株価の異常な上昇曲線と、口の中の綿菓子を重ね合わせた。
「この国の経済そのものですね。実体のない信用取引(クレジット)という空気が、人々の欲望を際限なく膨らませている。……誰もが永遠の繁栄を信じ、借金をしてまで紙切れ(株)を買い漁っている。だが、その巨大な泡(バブル)の表面張力は、すでに限界を突破しているのです」
「……九条が、動いているのですね」
凛が、ティッカーテープの山を見つめながら静かに問う。
「ええ。彼女がこの国に流し込んだ『紫の毒』は、もはや密造酒のような物理的なものではない。……『数字』と『噂』です。組織の陰謀が、ウォール街の地下で密かに実体経済の資金を引き揚げ始めている。彼らは、最も高い位置からこの泡を針で突き刺す準備を完了した」
葵の量子脳が、巨大な暴落の予兆(シグナル)を捉え、警告の赤い光を明滅させた。

2. 狂乱のウォール街、弾ける欲望

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狂乱のウォール街、弾ける欲望

数日後。事態は最悪の形で現実となった。
「暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー)」の発端から始まった株価の暴落は、週末を経て、ついに決定的な破滅の日——「暗黒の月曜日(ブラック・マンデー)」を迎えた。
ウォール街のニューヨーク証券取引所は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「売りだ! 全部売り払え!!」
「嘘だろ、俺の全財産が……紙屑になっちまった!」
数日前まで葉巻を吹かし、シャンパンを開けていた紳士たちが、ネクタイを引きちぎり、目を血走らせて叫び狂っている。群衆が証券取引所の扉に押し寄せ、警官隊と乱闘を繰り広げ、絶望した何人もの仲買人が、摩天楼の窓から石ころのように飛び降りようとしていた。
物理的な暴力ではない。
「富を失う」という純粋な恐怖が、紫の霧となってウォール街全体を覆い尽くし、人々の理性を完全に焼き切っていたのだ。
「……葵さん。取引所の群衆心理は、パニックの臨界点を超えました。暴動による死傷者の予測値が、秒単位で跳ね上がっています」
摩天楼の屋上。雨が降りしきる中、凛が銀色の装甲を濡らしながら報告する。
「……九条の組織は、経済という『世界で最も強固なネットワーク』を利用して、恐怖(紫)を一瞬で世界中へ感染させるシステムを作り上げた。このウォール街の暴落は、電信に乗ってロンドンへ、パリへ、そして帝都へと連鎖し、全世界を『大恐慌』という名の絶望へ突き落とすでしょう」
葵は、インバネスコートの襟を立て、特注の狙撃銃『アクアストライカー』を構えた。
「凛。私たちは経済の仕組みそのものを凍らせることはできない。ですが、目の前で絶望に飛び降りようとする命と、暴動の連鎖(パニック)だけは、物理的に停止させます」
「了解(イエス・サー)。……絶無(ゼロ・ドライブ)、起動。対象者の救命と、物理的制圧を開始します」

3. 氷結する通信網(ティッカー・ネットワーク)

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氷結する通信網(ティッカー・ネットワーク)

凛が、雨のウォール街へ弾丸のように飛び降りた。
重力を無視したかのようなサイボーグの機動。彼女は摩天楼の壁面を蹴り、窓から身を投げようとしていた銀行家の襟首を、銀色の手で正確に掴み取って安全な屋上へと放り投げる。
さらに、取引所の入り口で暴徒化し、互いを踏み潰そうとしている群衆の真ん中へ着地。
「……衝撃波(ショックウェーブ)、展開」
凛が両腕の装甲を交差させて放った不可視の衝撃が、暴徒たちを傷つけることなく弾き飛ばし、パニックの中心に強制的な空白地帯を作り出した。
「今です、葵さん! 取引所のメイン・ティッカー(通信中枢)が、パニックの数字(ノイズ)を世界中に送信し続けています!」
「……座標、ロック完了」
屋上の葵は、スコープ越しに証券取引所の巨大な通信アンテナと、地下の配電盤を同時に捉えていた。
「静まれ。……『アクアストライカー・絶対零度・凍結相場(サーキット・フリーズ)』」
葵の量子脳と連動した銃口から、極太の蒼き閃光が放たれた。
それは雨粒を瞬時に氷の刃に変えながら、ウォール街の通信中枢へと直撃した。
――バチィィィィン!!
取引所の巨大な配電盤と、すべてのティッカーテープの印字機が、分厚い蒼い氷に覆われて完全に停止した。
数字を刻む狂ったような機械音が止み、群衆の上に冷たい氷の粉雪が舞い散る。
通信機能が物理的に破壊(凍結)されたことで、ニューヨークからの「絶望の数字」の送信が、強制的に遮断されたのだ。

4. 経済という名の怪物

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経済という名の怪物

「……ふふふ。相変わらず、鮮やかな手際ですわね、青の調律者」
氷の粉雪が舞うウォール街。凍りついた街灯の上に、紫の傘を差した九条が立っていた。
彼女の足元には、紙屑となった大量の株券が雨に濡れて張り付いている。
「九条……! これが、あなたの望んだ世界ですか。人間からすべてを奪い、絶望のどん底へ突き落とすことが!」
葵が、冷たい義眼で九条を睨みつける。
「私が奪ったのではありませんわ。彼らが勝手に膨らませた『欲』という名の泡が、弾けるべくして弾けただけ。……私はただ、その針を少し早く刺してあげたに過ぎません」
九条は、パニックが止まり、茫然と立ち尽くす群衆を嘲笑うように見下ろした。
「あなたが通信機を凍らせたところで、無駄よ。恐怖(紫)はすでに人々の脳髄に刻み込まれた。……これから世界は、終わりの見えない『大恐慌』の時代に突入する。人々は職を失い、飢え、昨日まで笑い合っていた隣人を憎み始めるでしょう」
九条の言葉は、恐ろしいほどの確信に満ちていた。
「経済という目に見えない怪物が倒れた時、人間は生き残るために何に縋るか知っているかしら? ……ええ、暴力(軍隊)よ。この大恐慌の絶望は、やがて巨大なファシズムを生み、世界を再び、あの凄惨な大戦の炎へと引きずり込む」
九条は紫の傘を翻し、雨と霧の向こうへと姿を消した。
「……せいぜい、その機械の体で、世界中の絶望を凍らせてみなさいな。100年後の新宿まで、あなたのその冷たい心が持てばのお話だけど」

5. 綿菓子の残骸、鉄の決意

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綿菓子の残骸、鉄の決意

ウォール街は静まり返っていた。
通信機が凍りついたことで一時的な暴動は収まったが、人々の顔に刻まれた「明日への絶望」は、決して消えることはなかった。
「……葵さん。九条の言う通り、私の計算でも、この暴落が引き起こす世界的恐慌の確率は……99.9パーセントです。私たちの物理的な調律では、人間の『心に感染した経済の恐怖』を止めることはできません」
凛が、雨に濡れた銀色の体で葵の隣に立ち、悲痛な声で報告した。
「……ええ、凛。分かっています」
葵は、インバネスコートのポケットから、先ほど凛が持ってきた綿菓子の残骸を取り出した。
湿気と雨に晒された綿菓子は、見る影もなくドロドロの砂糖水に変わり、葵の機械の指先からポタポタと零れ落ちていく。
「泡(バブル)は弾け、後にはこの冷たくて惨めな現実だけが残った。……世界はこれから、飢餓と憎悪、そして新たな世界大戦へと向かっていくでしょう」
葵は、溶けた砂糖水を払い落とし、冷たい雨に打たれるウォール街を見下ろした。
彼の人工心臓は、絶望の計算を弾き出しながらも、決して歩みを止めることを拒否していた。
「ですが、凛。私たちが人間を捨ててまでサイボーグになったのは、この果てしない絶望の底でも、決して計算を諦めないためです」
葵は、凛の銀色の手をとった。
「経済が壊れ、世界が再び火の海になろうとも。私は、目の前の狂った数式を一つ一つ凍らせていく。……どれほど無謀でも、それが『青の調律者』としての私たちの存在証明です」
「……了解(イエス・サー)。あなたの計算が続く限り、私の機能も永遠に停止しません。……次の燃料は、この雨よりもずっと苦い、ブラック珈琲をご用意します」
凛の瞳に、青白い光が強く灯る。
1929年、暗黒の月曜日(ブラック・マンデー)。
黄金の20年代と呼ばれた繁栄の時代は、無惨に弾け飛んだ。
世界が「大恐慌」という名の果てしない絶望の暗闇へと転がり落ちていく中、二体の青きサイボーグは、摩天楼の頂でただ静かに、来るべきさらに巨大な戦い(第二次世界大戦)への覚悟を固めていた。
彼らの戦いは、やがて100年の時を超え、極東の不夜城・新宿へと繋がっていく。
終わらない調律の旅は、まだその中間地点を過ぎたばかりであった。
(第五話へ続く)

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第五章:鉄の暴風、忘却の爆心地 ― The Steel Holocaust and the Lost Memory ―

Cross Color Wars: Azure Chronicle
新世界編 ― 摩天楼の狂騒曲 ―
第五章:鉄の暴風、忘却の爆心地 ― The Steel Holocaust and the Lost Memory ―

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Dレーション・チョコレート

1. 生き延びるための苦味

「……葵さん。本日の、糖分です。米軍が開発した野戦用の高カロリー配給食(レーション)……『Dレーション・チョコレート』です」

1940年代初頭。再び世界が黒い硝煙に包まれる中、アメリカ東海岸の地下シェルター。

蒼井凛が、無機質な銀色の指先で、オリーブドラブ色の無骨な包み紙を机に置いた。

天海葵の左目を覆う『量子演算ターミナル』は、ヨーロッパ戦線や太平洋で繰り広げられる絶望的な死傷者数のデータを、淡々と処理し続けている。

「……ありがとう、凛」

葵は包装を破り、分厚く硬いチョコレートのブロックを噛み砕いた。

カカオの風味はほとんどなく、耐熱性を高めるために混ぜられたオーツ麦の粉っぽさと、生き延びるためだけに計算された直線的なカロリーの味がした。

「……計算開始。美味とは程遠い。まるで泥と砂糖を練り固めたような味だ。だが、この極限状態の戦場において、兵士の脳を強制的に稼働させ、死の恐怖を麻痺させるには、これくらい無機質で重い燃料が必要なのでしょう」

葵は義眼を点滅させ、チョコレートの塊を人工胃袋のエネルギー変換炉へと落とし込んだ。

「大恐慌が生み出した絶望は、最悪の形で『熱狂』へとすり替わりました。ファシズム、そして全体主義。人々は飢えと恐怖から逃れるため、自らを国家という巨大な機械の『歯車』に喜んで作り変えた。……そこにあるのは、ただシステマチックに敵をすり潰すための、冷徹な死の大量生産です」

「……九条の蒔いた紫の毒は、ついに『兵器』という究極の形に結晶化したのですね」

凛が、自らのチタン合金の腕を見つめながら呟く。

「ええ。ネバダの砂漠の地下深くで、彼らは『世界の法則(ルール)そのものを破壊する兵器』のプロトタイプを稼働させようとしています。……行きましょう、凛。どれほど世界が狂気に沈もうとも、その一線を越えさせるわけにはいかない」

2. 砂漠の悪魔、臨界突破の罠

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砂漠の悪魔、臨界突破の罠

ネバダ砂漠の地下に広がる極秘の巨大軍事施設。

そこでは、九条の紫のエーテルを物理的な熱線エネルギーへと変換・増幅させる、巨大な『対消滅加速砲(エーテル・コライダー)』の最終テストが行われようとしていた。

施設の中枢部。防弾ガラスの向こう側で、紫の扇子を揺らして九条が冷酷に笑っている。

「ふふふ……これぞ究極の『色の戦争(カラーウォーズ)』の終着点ね。ただスイッチ一つで、数百万の命が灰になる。大恐慌の絶望が、人間から『他者を思いやる想像力』を完全に奪い去った結果よ」

「……その想像力の欠如こそが、最も醜いバグです」

轟音と共にコントロールルームのチタン扉が吹き飛び、紺色のインバネスコートを羽織った天海葵と、青白く発光する流線型のサイボーグ・ボディを露わにした蒼井凛が現れた。

凛が音速の機動で警備の強化兵士たちを無力化していく中、葵は狙撃銃『アクアストライカー』を加速砲のコアエネルギー管へと向けた。

「遅い。……私の計算は、すでに『解』を導き出している」

葵の脳内で、レーション・チョコレートの重いカロリーが、絶対零度の数式へと変換されていく。

「静まれ。……『アクアストライカー・絶対零度・事象凍結(イベント・ホライズン)』」

放たれた蒼き閃光が、粒子加速砲のエネルギー管を直撃する。

通常であれば、これで内部のエーテルは完全に凍結し、システムは沈黙するはずだった。

しかし。

――ピピピピピピ……!! 警告音(アラート)が施設内に鳴り響き、凍りついたはずの加速砲のコアから、極彩色の不気味な光が漏れ出し始めた。

「な……計算値が、反転している……!?」

葵の左目のターミナルに、エラーコードが滝のように流れる。

「あはははは! 引っかかったわね、天海卿!」

九条が防弾ガラスの向こうで狂喜の声を上げた。

「この加速砲はね、あなたの『絶対零度』のエネルギーを吸収して、逆に臨界突破を引き起こすように設計しておいたのよ! 紫の熱量と青の冷気……二つの極限が衝突して生み出される『対消滅の爆発』は、この砂漠どころか、北米大陸の半分を吹き飛ばすわ!」

コアの温度が数百万度に達し、施設を包む空間そのものが歪み始めていた。

3. 忘却の爆心地、記憶の代償

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忘却の爆心地、記憶の代償

「……葵さん! コアの崩壊まで、残り三十秒! この爆発を物理的に抑え込むことは、不可能です!」

凛が、熱風に装甲を焦がしながら叫ぶ。

「……いいえ、凛。一つだけ、方法がある」

葵は、エラーを吐き出し続ける量子脳の制限(リミッター)を、自らの意志で強制的に解除した。

「私とあなたのサイボーグ・ボディの『全エネルギー(命)』を、冷却フィールドとして逆流させる。……爆発の瞬間に、爆心地そのものを私たちごと『真空凍結』するのです」

葵の声は静かだった。それは、確実な死、あるいはそれに等しい代償を意味していた。

「……了解(イエス・サー)。あなたの計算の果てに、私も共に行きます」

凛は一切の躊躇なく、葵の隣に立ち、自らの動力炉(コア)の保護隔壁を開放した。

「ですが、葵さん……オーバードライブによる全メモリの解放は、私たちの『記憶データ』を焼き切ってしまいます」

凛の瞳が、悲しそうに揺れた。

「あなたが淹れてくれた珈琲の味。一緒に食べた長崎カステラの甘み。帝都の青い空。……そのすべてが、消えてしまう」

「……」

葵は、崩壊していく施設の中で、凛の銀色の手を強く握りしめた。

「……記憶が消えても、魂に刻まれた『青い数式』は残る。……私たちが何者であったかを忘れても、この狂った世界を調律し、誰かの平穏を守るという『祈り』だけは、決して消え去りはしない」

葵は、最後の力を振り絞り、凛と共に暴走する加速砲のコアへと飛び込んだ。

「馬鹿な……! 自爆する気!? おやめなさい、そんなことをすればあなたたちの自我(システム)は完全に崩壊するわ!」

九条が初めて焦燥の声を上げるが、遅かった。

「……さようなら、凛。いつかまた、完璧な温度の珈琲で会いましょう」

「……はい、葵さん。……どうか、私のことを……」

凛の最後の言葉は、巨大な光に飲み込まれた。

対消滅のエネルギーが爆発した瞬間。

葵と凛の全出力が解放され、想像を絶する『絶対零度の爆風』が発生した。

灼熱の爆炎は外に広がることを許されず、二人の青い冷気によって爆心地のわずか半径数十メートルの中で完全に相殺され、相転移を起こした。

音のない、真っ白な空間。

その中で、葵の量子脳と凛のメモリバンクは、過負荷によって次々とセクタを焼き切られていく。

(……文明開化のガス灯……)

(……金平糖の甘み……)

(……帝都の空……)

(……凛の、不器用な笑顔……)

大切な記憶の断片が、ノイズと共に暗闇へと吸い込まれて消えていく。

彼らは世界を救う代償として、「自分たちが何のために戦ってきたのか」という最も大切な過去を、爆風の中に置いてきたのである。

砂漠の地下施設は、完全に機能停止した巨大な氷の塊だけを残して、永遠の沈黙に沈んだ。

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永遠の沈黙 大切な記憶の断片が、ノイズと共に暗闇へと吸い込まれて消えていく

4. そして100年後、ネオンの海へ

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100年後の東京・新宿

――時は流れ、一世紀後。

空を覆うのは黒煙ではなく、酸性雨を降らせる灰色の雲。

地上を埋め尽くすのは、天を突く摩天楼と、夜を昼のように照らす七色のホログラム・ネオン。

人々は電子ドラッグと仮想現実に溺れ、見えない巨大なネットワークの恐怖に怯えながら生きている、不夜城の街。

『東京・新宿』。

ビルの屋上、雨に打たれる廃棄物の山の中で、長い間機能を停止していた「二つの銀色の塊」が、微かな電子音を立てた。

カチ……リ。

青白く発光するサイバネティックな瞳が、ゆっくりと開く。

流線型のボディを持った少女(凛)と、側頭部にターミナルを埋め込まれた濃紺のコートの男装の麗人(葵)。

「……システム・リブート。……メモリ・セクタ、99%破損。……自身の個体識別情報、エラー」

凛が、錆びついた関節を動かしながら身を起こす。

彼女のデータベースには、過去の記憶が一切残っていなかった。自分がなぜここにいるのか、隣で倒れている男装の麗人が誰なのかすら分からない。

「……再起動(リブート)完了。……脳内糖分、著しく低下」

葵が、ゆっくりと立ち上がり、雨に濡れたネオンの海を見下ろした。

彼の量子脳もまた、空っぽだった。自分がかつて「調律者」と呼ばれていたことも、守りたかったものも思い出せない。

だが。

葵の左目のターミナルが、新宿の街の奥底で蠢く「不純なノイズ(紫の波長)」を自動的に検知した瞬間、彼の奥底に眠る『コアプログラム』だけが、熱く反応した。

「……私の名は、天海葵。……この狂った数式を、凍らせなければならない」

葵は、無意識のうちに背中の『アクアストライカー』に手をかけた。

「……了解(イエス・サー)。マスター・葵。……私の名は、蒼井凛。あなたの計算を完遂するための、完璧な『右腕』です」

凛もまた、記憶がないはずなのに、葵の隣に立つことが世界で最も自然なことであるかのように、その銀色の拳を構えた。

記憶を失い、時代に取り残された二体の青きサイボーグ。

しかし、彼らの魂に刻まれた「世界を調律する」という蒼き祈りだけは、爆風すらも消し去ることはできなかった。

降り頻る酸性雨の中、彼らはネオンが不規則に明滅する新宿の闇へと、静かに歩み出した。

100年の時を超えた『新宿大戦』の幕が、今、記憶の喪失と共に静かに、そして残酷に切って落とされたのである。

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100年の時を超えた『新宿大戦』の幕が開ける

(新世界編・完 ―― 現代・新宿大戦編へ続く)


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